80年代〜NYストリート・ファッションを席巻したダッパー・ダン驚愕のライフ・ストーリー【3/3】

80年代〜NYストリート・ファッションを席巻したダッパー・ダン驚愕のライフ・ストーリー【3/3】

ダッパー・ダンの自伝本『Dapper Dan: Made in Harlem: A Memoir』のまとめ記事、【1/3】【2/3】に続き、今回が最終編です!前回は、マイク・タイソンとミッチ・グリーンのストリート・ファイト報道で、ダッパー・ダンの店がファッション業界の目にとまってしまい、ルイ・ヴィトン、グッチ、MCMによる摘発がスタートした時期までいきました。今回はフェンディによる摘発からスタートです。

ソニア・ソトマイヨール

フェンディの摘発を監督していた意外な人物!

フェンディは的財産関訴訟の先駆者であるパヴィア&ハーコートという法律事務所の弁護士を雇っていた。その事務所に、ソニア・ソトマイヨールという女性弁護士がいた。彼女は、後にオバマ大統領がアメリカ史上初のヒスパニック系の米連邦最高裁判事として任命した女性だった。当時は、弁護士として働いており、彼女にとって初めての有名ファッション・ブランド依頼案件がフェンディだった。彼女はクイーンズの模倣品製造者の摘発を手助けし、ダニエルの店も摘発することに決めた。ダニエルは、今までにたくさんの摘発を受けてきたが、その中でも一番尊敬しているのがソニア・ソトマイヨールだ。彼女がダニエルの店の摘発を監督した時、MCMの代理人エージェントも店にいた。ダニエルは、MCMが押収した服を仲間で山分けしていた件について、まだ怒っていた。MCMのエージェントが押収した商品をゴミ袋に入れようとしていた時、ソニアは彼らの作業をやめさせ、裁判所命令の書類を提示する必要があることを伝えた。彼らが裁判所命令の書類を持っていなかったことが発覚し「ダメね、裁判所命令の紙がなければ、押収はできないわ」と言った。そんな彼女がアメリカの歴史上初のヒスパニック系の米連邦最高裁判事になったのだ。

この一件があってから、今までに裁判所命令の無しの違法な摘発がどれだけあったのだろう?と考え始めた。それでも、ソニアは自分の任務を遂行しなければならなかった。彼女はMCMの代理人エージェントを追い出しただけでなく、商品を押収している時にも心に残る言葉を残した。ビッグ・ダディ・ケーン用に作った服を見て「ワーオ!本物のデザイナーなのね!」と服を褒めた。そして、その服をゴミ袋にいれた。

D.J. Chuck Chillout & Kool Chip「I’m Large」のMV (1989)

DJ チャックチルアウト&クールチップのMVのストーリーが…

ある日、ダニエルはDJ チャックチルアウト&クールチップの「I’m Large」のミュージックビデオにスタイリストとして雇われた。ディレクターは「Yo! MTV Raps」のテッドだった。この曲のストーリーは、ドクター・イル(Dr.ILL)という悪役がヒップホップ界で極秘戦争を企てているというものだった。ドクター・イルがダッパー・ダンを誘拐するシーンは、ファッション業界がダニエルに行ったことのメタファーで、ダニエル自身もキャメオ出演した。これはエンターテイメントだったが、当時のハーレムでは誘拐や拉致が大きな脅威となっていた。一大産業といっても過言ではないレベルで、ドラッグ業界の大物ハスラーの誘拐に特化した組織まで存在していた。彼らは身代金を要求して金を稼いでいた。

ドラッグ・ゲームの副産物:誘拐と拉致

誘拐や拉致はドラッグ・ゲームの最悪な副産物だった。全てがコントロール不能になり、金を稼いでる人間はみんな餌食になった。店を営業していた9年間、ダニエルは街のハスラーとの繋がっていたため、強盗などの心配をする必要はなく、防犯としては十分だった。ある日、店の前でブロンクスの大物ハスラーがピストルで殴られ、血まみれになりながら車で拉致される現場を目撃した。それから、もう誰も安全ではないのか?と思いはじめた。ある日、ダニエルが息子のジェラーニを小学校に迎えにいくと、先生がやってきて「ちょっと前に女性がお子さんを迎えに来たんです。でも今までに見たことない人だったので名前を聞くと、去って言ったんです。」と言われた。

誘拐未遂事件に巻き込まれ銃弾を受ける!

ある夜、ダニエルはGMCサファリを店の前に停めていた。車内にいると一台の車がアイドリングしているのに気づいた。悪い予感がして「なんで俺の隣でずっとアイドリングしてるんだ?」と声をかけると、突然足音が聞こえて運転席のドアが開いた。すでに色々と遅かった。知らない男がドアを開けてダニエルの頭に銃を押し当て「車のバックシートへ行け!」と言ってきた。ダニエルは固まってしまった。ダニエルは今までのストリート・ナレッジと経験からどうにかして戦わなければ!と思い、車のドアで彼を押し倒すと、銃が発砲された。その男がダニエルに向かって撃ったのか、アクシデントで発砲したのか分からないが、ダニエルの背中に命中した。銃声を聞いた店の女性店員が、車に乗っているダニエルのところに来た。ダニエルはパラノイア状態になっており、この女性店員もグルかもしれないとまで考えていた。彼女は助手席にダニエルを乗せて病院に向かった。

病院には13日間入院した。銃弾が1cmずれていれば命を落としていた。銃弾を取り除く手術が困難な状態で、ダニエルの首の下には今でも銃弾が残っている。このトラウマ体験の後遺症は今でも続いており、近所で知らない人を見かけると手に汗をかいてアドレナリン全開で警戒体制に入るようになった。車が店の近くを徘徊すると、いつもフラッシュバックと戦っていた。ダニエルは悲しみにくれた。ストリートの恐怖や自暴自棄に振り回されるのが嫌になった。ダニエルはただ人に洋服を作り、読書をしながら子供たちの成長を見届けたかった。この事件があってから、人と接するのが嫌になり、店の営業は兄弟たちに任せ、ダニエルは店の奥や家で過ごす時間が多くなった。

フェンディとの裁判

誘拐未遂事件後、フェンディの裁判で裁判所に出廷しなければならなかった。ダニエルは自分の仕事となると、リサーチに時間と労力を注いでいたが、訴訟や法廷のことは何も知らなかった。ブランドからの摘発、誘拐未遂事件で撃たれてからは、自分のモチベーションをあげれる精神状態ではなかった。裁判当日、弁護士が必要なことも知らなかったため、自分で自分を弁護することになった。それまで、地元コミュニティで白人と接したことは一度もなかった。これは白人を信用しない母親の影響が大きい。司法制度は白人のもので、ダニエルは全く信用していなかった。そこで、ダニエルは自分を信じて自分の無罪を主張した。

弁護士事務所で供述をとることになったが、はじめてのことばかりだった。知り合いでこんな会合に出席した人は誰もおらず「この場合は、損害賠償を払って、ウィードでも吸って忘れて前へ進め!」と助言してくれる人もいなかった。フェンディ側の弁護士は、差し止め命令を申し出て、ダニエルが作ったフェンディの模造品の商品に加え、服を製造する機械まで没収した。試しで1回使った刺繍マシンまで没収した。ダニエルは白人社会での対応の仕方が分からず、ダッパー・ダン・ブティックの存続をかけた戦いに負けて、25万ドルを失った

ダニエルは店を営業していた9年間、休暇も祝日もなく働き続けた。店のために朝早く起きて健康な食事を心がけていた。ダニエルにとって、この店が全てだった。毛皮を売ってもらえなくなったり、店が摘発に合っても戦い続けてきた。ダニエルは戦うのに疲れ、もう自分の店を持ちたいとも思わなくなっていた。

ブティック閉店で失意のどん底に…

ブティックを閉めてから、しばらく公然の目から消えていた。誰もダニエルの行方を知らなかった。3ヶ月間、身体的にも精神的にもベッドに引きこもっていた。友達からの電話にも出ず、一人になって今後について考えなければならなかった。家族はダニエルのことを本気で心配し始めた。ダニエルは食事もしなかったので、今までの人生で一番痩せた。暗黒時代だった。毎日、奥さんを仕事先まで車で送り出し、息子を幼稚園に送り迎えにいくだけだった。フェンディはダニエルを刑務所に送らなかったが、自分で自分を刑務所にいれているような感じだった。生活費は、奥さんのジューンの給料に頼っていたが、家賃も電気も支払いが遅れた。こんな具合で一文無しになった。電気や電話も止められた。

しばらく引きこもりを続けていると、食欲がもどってきた。色々考えた結果、ファッション業界にい続けることを決心し、店舗をもたないビジネスに変えることにした。「アップタウンに観光ツアーバスが来ているから、観光客向けの屋台ベンダーをやったら?」とジューンに提案された。屋台のベンダーは悪い話ではなかった。観光ツアーは、1920年代の禁酒法時代に名を馳せたハーレム高級ナイトクラブ:コットンクラブやハーレム・ルネサンスなどハーレムの名所を巡るもので、ヨーロッパからの観光客がたくさん来ていた。ダニエルはシャネルのロゴをプリントしたTシャツを作って屋台のベンダーで売ることにした。

ハーレムの屋台ベンダーのイメージ

屋台ベンダーでTシャツ販売を開始!

90年代のハーレム125丁目は屋台ベンダーで溢れていた。お香、本、ソウルミュージックを爆音で流してCDやカセットを売るベンダーがたくさんいた。そこでTシャツを売り出したが、140台ものツアーバスが止まったのに、Tシャツは1枚も売れなかった。ダニエルはまたギャンブルをスタートした。ダイス・ゲームはダニエルにとって最速で確実に稼げる方法だった。ダニエル25ドルを持って、ギャンブルスポットに向かった。ゲームを始めると、すぐに家の暖房費を払える額を稼ぎ、数分後には新しいミシンや布の生地ロールを買えるほどの金を稼いだ。

ギャンブルで稼いだ金で自宅にスタジオを作ることができた。地下鉄に乗ってガーメント・ディストリクトまで行き、生地を買い込んでスタジオで洋服を作った。スタジオで最初に夢中になったのは、パソコンとグラフィックデザイン用のソフト「CorelDRAW」だった。1992年のことだった。最初はパソコンの使い方がわからなかったので、息子に教えてもらった。パソコンをマスターすると、布素材に染料を転写できるプリンターで大量のTシャツを生産できるようになった。

当時はGUESSが流行っていたので、GUESSのシンボルを違う色使いで転写した女性向けのTシャツを作った。それを屋台のベンダーで売ると、1日に60枚以上も売れた。そのうちTimberlandのジャケットも作ってみると、さらに売れた。ジュリアーニ市長のおかげで、ベンダー屋台ビジネスは長くは続かなかったが、他の方法で売る方法を考えた。

ハスラーとのコネを頼りにアメリカ各地へロードトリップ

今までダッパー・ダン・ブティックとダッパー・ダンの名前をアメリカ各地に広めたのは「ギャングスター」「ラッパー」「MTV」だった。そして、ダニエルは、まだマイアミ、ロサンゼルス、バルティモアからデトロイトにいるハスラーとのコネを持っていた。店は閉店したが、彼らの元に出向いて服を売ってはどうだろうか?と考えた。ジープのトランクに商品を積んでロードトリップに出た。NYハーレムからフロリダ州のオーランドまで、通過地点の都市にいるドラッグ・ディーラーやギャングスターに服を売りながら旅を終えた。

このロードトリップでドラッグ・ゲームがアメリカ全土の黒人コミュニティに影響を与えていたことを学んだ。知っている話もあったが、驚くような話もあった。フロリダとロサンゼルスのハスラーたちは、気候的に必要ないのに、コートを気に入っていた。どの都市でも黒人と白人コミュニティの格差が広がっているのを見た。デトロイト、フィラデルフィア、コネチカットなど他の地域のドラッグ・ディーラーとの話は興味深かった。特にフィラデルフィアのモブはワイルドだった。フィリーの若者たちは、リック(コデイン)にハマっており、ニュージャージーの奴らはピルの販売を始めていた。フィリーの有力なハスラー集団:ジュニア・ブラック・マフィアは、メンバー全員が酒もタバコもやらないムスリムのグループだった。そのチームのボスはアーロン・ジョーンズという人物で、終身刑をくらっていた。ダニエルはアーロンのような大物ボスたちに商品を売っていた。

アンディ・ヒルフィガーとアリーヤ

アンディ・ヒルフィガーからお声がかかる!

ヒップホップ業界にも顧客はいたが、ほとんどは自分たちのファッションレーベルをはじめていた。ラッセル・シモンズはファット・ファーム(Phat Farm)をはじめ、その他にもクロスカラーズ(Cross Colours)やフブ(FUBU)といった新しいストリートウェア・ブランドが登場した。そして、ラルフ・ローレンやトミー ヒルフィガーも学生をターゲットにし始めた。若者たちはラルフ・ローレンとPOLOが作り上げたライフスタイルと、そのブランドに夢中だった。80年代後期から90年代初期にかけて、POLOはPOLO SPORTSで黒人のモデル:タイソン・ベックフォードを起用し、積極的に黒人消費者にリーチし始めた。

ヒップホップ世代をマーケティングした最初の大手ブランドのひとつがトミー・ヒルフィガーだった。トミー ヒルフィガーはラッパーたちから支持を集め、グランド・プーバはメアリー・J. ブライジのデビュー・アルバム『What’s 411』でトミー ヒルフィガーについてラップし、ヒルフィガーはプーバに無料で洋服を送った。彼らはスヌープ・ドッグにも同じことをして、スヌープはサタデー・ナイト・ライブのTV出演時にトミー ヒルフィガーのロゴが入った服を着用した。

これらのブランドのストリートでの影響力を目撃したダニエルは、ダッパー・ダン・バージョンのPOLOとトミー ヒルフィガーの洋服販売をスタートした。ダニエルはハーフ・ジッパーのプルオーヴァーを1日60着、7ヶ月間に渡って制作し続け問屋におろしたところ、全部売り切れた。その後、ブートレガーたちがダニエルの商品をコピーし始めた。毎回ダニエルがヒット商品を生むと他のブートレガーたちが商品をコピーして、イライラした。

ヒップホップ文化がアメリカのユースカルチャーとなってきた時代に、ダニエルは、ハーレムで有名なダード(Dard)という人物にトミー ヒルフィガーのカスタム・バブル・ジャケットを作ってあげた。ダードはその服を着てクラブでモデルのタイソン・ベックフォードと一緒に遊んでいたところ、当時ファッションレーベルのミュージシャン担当だったアンディ・ヒルフィガーが同じ現場に居合わせた。アンディ・ヒルフィガーはダードが着ているジャケットを見て「このジャケット誰が作ったの?」と声をかけ、アンディがダニエルに会いたいと言ってきた。

アンディ・ヒルフィガーはトミー ヒルフィガーでデザイナーとして働かないか?と話を持ちかけた。しかし、ダニエルはブランドからの摘発がトラウマとなっていて、もしトミー ヒルフィガーで働いたとしてもフェアな条件で契約はされず搾取されるだけだろうと思い断った。こういったメジャー・ブランドが何度かダニエルに声をかけてきたが、全部断った。
<終わり>

<編集後記>

すごく長い記事だったので、ここまでお読みいただいた方、お疲れ様でした!!!こんな山あり谷ありの人生を2017年にグッチとパートナーシップを結んでファッション業界に返り咲いたダッパー・ダン(76歳)には、尊敬しかございません。次にニューヨークに行ける機会があったら、是非ダッパー・ダンのアトリエに訪問してみたいです。

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