アメリカ奴隷制時代の歴史を色濃く残す南部のプランテーション

アメリカ奴隷制時代の歴史を色濃く残す南部のプランテーション

ヒップホップといったアメリカ黒人音楽のルーツをたどる上で、切っても切り離せないのがアメリカ奴隷制の歴史です。近年『ジャンゴ 繋がれざる者』(Django Unchained)、『バース・オブ・ネイション』(The Birth of a Nation/日本未公開)、『それでも夜は明ける』(12 Years a Slave)といった映画が数多く公開され、奴隷制時代の黒人側のストーリーを知る機会も増えました。2020年の3月には奴隷解放に命をかけた黒人女性、ハリエット・タブマンの生涯を描いた映画『ハリエット』も公開予定!ということで、ニューオーリンズ旅行で、アメリカの奴隷制時代の歴史を色濃く残すプランテーション(大規模農園)に行ってきました。

ニューオーリンズで観光地になっているプランテーションは7ヶ所ほどあるのですが、今回訪れたのはオークアレイ・プランテーションです。ニューオーリンズの市内から車で1時間ほどのセントジェームズ郡にあります。

トム・クルーズや ブラッド・ピット主演の映画『インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア』やビヨンセの『Deja Vu』のミュージックビデオをはじめ、数多くのハリウッド映画の撮影ロケ地になっています。

プランテーションとは?
近世植民制度から始まった前近代的農業大企業およびその大農園。熱帯・亜熱帯地域の植民地で、黒人奴隷や先住民の安い労働力を使って世界市場に向けた単一の特産的農産物を大量に生産した。

まずは、大一族出身の実業家、ジャック・ロマンが1836年に建造した「ビッグ・ハウス」と呼ばれるお屋敷の中を見学しました。

ガイドによると、ジャック家には銀行の取締役、政治家、郡判事などがおり、南北戦争前のルイジアナの政治、財政や農業の分野において相当の権力があったそうです。ジャックが亡くなりロマン一族にも様々な人間ドラマが繰り広げられるのですが、南北戦争の終了と奴隷制プランテーションの終焉と共に幕を閉じました。

お屋敷の中は写真撮影禁止のため写真はありませんが、1840年〜1850年代の一族の生活を再現した食堂、主人の寝室、子供部屋など、海外から輸入した家具やベッドなど豪華でした。レンガなど建物の一部は1836年当時のまま残っています。旅行ガイドでは、ロマン一族の生活を彩った調度品やインテリアなどを楽めると紹介されていますが、ヒップホップでアメリカ黒人の歴史を学んできた筆者の目線としては、白人奴隷主の豪華な生活のために、どれだけの人間の命が犠牲になったのだろう?と考え始めるばかりで、全く楽しめないのが正直なところです。

邸宅の前には樹齢300年の樫の木が植えられ、近くには広大なサトウキビ畑が広がっています。
樫の木の本数が多ければ多いほどリッチ!

お屋敷との対比が強烈なロマン家に使えていた奴隷たちが生活していた小屋も見学しました。

ジャック・ロマン一族は、男性、女性、子供を含む合計892人の奴隷を所有していたそうです。屋外奴隷は、夜明け前から日没までサトウキビ畑で働き、収穫の繁忙期には1日18時間も休みなしにサトウキビを刈り続けるという過酷な労働条件で、当時の屋外奴隷の平均寿命は17歳〜38歳だったそうです。

こちらは洗濯鍋です。この大きな鍋で洗濯物を茹で石鹸を取り除くために叩き、ふたたび茹でた後に干す!石鹸も「灰」から作るのですが、アルカリ性の灰汁で手や腕が焼け危険な作業だったそうです。

こちらは、病気やケガをした奴隷を治療する「Sick House」と呼ばれる部屋です。

ただ単にベッドとブランケット、バケツ、包帯、寝室用便器があるだけの粗悪な環境です。特に当時、黄熱病といったウイルス性の病気が流行した時には、奴隷ナースや医者なども感染し病気の温床となりました。

ここがキッチンです。プランテーションでは奴隷たちが自分の庭でルイジアナ原産ではないオクラ、スイカ、ササゲ(豆)、とうもろこし、キャベツ、スイート・ポテト、カラシナといったアフリカや南米原産の作物を育てていました。それらが現在のクレオール料理の主な材料になっています。

屋外奴隷はサトウキビ畑での労働以外にも年間を通して色々な労働をします。

屋外奴隷の労働年間カレンダー
1月:サトウキビの種植え / 木の裁断
2月:サトウキビの種植え / 水路補修
3月〜4月:トウモロコシと豆の種まき / サトウキビ畑の除草 / 水路補修
5月〜7月:サトウキビ畑の除草 / 水路掃除 / トウモロコシと豆の収穫
8月:道路補修 / 木の裁断 / 干し草の収穫
9月:池の掃除 / 土手やフェンスの補修
10月〜11月:トウモロコシの収穫 / 道路補修 / サトウキビの収穫〜精糖作業開始
12月:サトウキビの精糖作業終了

サトウキビの収穫〜精糖作業を「The Griding」と呼び、畑で1日18時間労働していたそうです。一生懸命働くことを意味するスラングの「grindin」は、これが語源なのかな?と思いました。

奴隷の足枷にも色々と種類がありました。奴隷の逃亡を阻止するため身体の動きが制限され、動くと音が鳴る仕組みになっているものや、移動時の子供用の足枷など、鍛冶屋によって様々なタイプが出回っていたそうです。

こちらが、実際に足枷などをつけている奴隷の姿で、首につけている拘束具は逃亡する時に木々にひっかかり上手く逃げれないようになっています。この写真は南北戦争時代に奴隷解放を訴えていた北部の宣伝に使われたそうです。

こちらは当時の奴隷売買の広告です。

こちらは、1836年から南北戦争の間にオークアレイ・プランテーションを支えていた220人以上の男性、女性、子供達の奴隷の名前一覧です。個人の名前を出すことで、より人間像が浮かびあがります。プランテーション敷地内のパネルでは、実際にロマン家に使えた奴隷たちの個別ストーリーも語られていました。

▼ゼファー(Zephyr)
ゼファーは、ロマン家に使える奴隷から自由黒人となった唯一の人物です。彼は1836年に妻のザイール、アントワーヌとバッカスという2人の息子とオークアレイに連れて来られました。ゼファーは「忠実な奴隷」であったことが評価され自由黒人となりました。しかし、自身の妻や息子たちは引き続きロマン家の奴隷だっため、解放後もオークアレイに残り自由黒人として働き続けました。その後、10年かけて貯金し妻のザイールをロマン家から350ドルで購入し救いましたが、ゼファーは70歳、ザイールは60歳を迎え、そのままオークアレイに住み続けることにしました。理由としては、息子達がまだロマン家の奴隷として使えていたことと、奴隷から解放されても自力で生活するだけの資金がなかったからだそうです。ゼファーが妻のザイールを購入した時の書類も衝撃的です。ゼファーは読み書きができなかったため、書類には「X」とだけサインし、役人が「ゼファー」と書き加えたそうです。ゼファーのストーリーでは、奴隷解放のプロセスやその後の人生が非常に複雑だったことがわかります。

▼マリー(Marie)
マリーは、料理人の奴隷です。料理人というと屋敷の中で働くイメージですが、マリーの場合は屋外奴隷たちの食事を作る料理人です。大きな鍋で大量の食事を用意するのが仕事で、ロマン家の食事を用意する家内奴隷の料理人とは同様には扱われなかったそうです。

▼エミリア(Emilia)
エミリアは屋外奴隷の女性です。屋外奴隷は奴隷の中でも最下級と考えられており、彼女は他の屋外奴隷の女性たちと共に道路や水路の補修、ミシシッピ川の堤防など主にプランテーションのメンテナンス一般を担っていました。奴隷階級の中でも最下級ということで、プランテーション敷地内でも粗悪なエリアの小さい部屋で息子5人と一緒に暮らしていました。

▼プレタ・ボワール(Pret-a-Boire)
プレタ・ボワールは奴隷として1799年頃に産まれました。最初は家内奴隷として使えていましたが、どんどん降職し、牛車の運転手になり、最終的には最下級の屋外奴隷になりました。与えられる服がどんどん少なくなり、労働内容や時間がさらに過酷になったことにより衰弱し、リウマチと喘息を悪化させたそうです。

こちらは奴隷の価格リストです。このリストを見ると、個人や母子のグループセットで値段がついています。奴隷のスキル、出身地、年齢によって値段が異なり、大工、農夫、荷車引き、靴職人、鍛冶屋、裁縫など何かしらのスキルがあると値段が高くなり、将来の労働力となる子供と母親はセットで売られ、病気持ちの高齢者は安価になっています。

<奴隷の価格リストの例>
ミーナ(30歳):ムラートの裁縫婦+5人の子供たちのセット → 1500ドル
ジュリアン(19歳):クレオールのニグロ/靴職人 → 1100ドル
プリンス(34歳):ムラートの大工 → 1500ドル
フランソワーズ(28歳):クレオールのニグロ女性+3人の子供たちのセット → 1300ドル
オヌフレ(54歳):アフリカのニグロ→ 50ドル
マリー(69歳):奴隷用の食事を作る料理人→ 50ドル
ピトレ(60歳):病気持ちのクレオールのニグロ→ 25ドル

※アメリカン:東海岸からルイジアナに連れてこられた奴隷
※クレオール:ルイジアナで産まれた奴隷
※アフリカン:アフリカで産まれた奴隷
※ニグロ:アフリカ人種
※ムラート:アフリカとヨーロッパ人種
(パネルに書かれていた説明を参照しています)


アメリカの奴隷制という負の遺産や歴史について、頭で理解はしていても、人間に値段がつけられた奴隷の価格リストは生々しく衝撃的で、さすがに涙がでました。壁に書かれた奴隷たち名前も、本名ではなく奴隷主に勝手につけられたり、途中で変更されたりしています。ゼファーやマリーといった人物が自分の先祖だったとしたら、自分はどう感じるだろう?ビヨンセはこのプランテーションで「Deja Vu」を撮影し何を思ったのか?など考え始めてしまい、最初から最後まで居た堪れない気分で見学したプランテーションでした。

そして、プランテーションで働いていた奴隷たちが苦しみの中から自然発生的に生みだしたプランテーション・ソングがゴスペルとなり、南北戦争時代のラグタイムという音楽がジャズとなり、後のブルース、ロック、R&B、ヒップホップといったアメリカ黒人音楽に繋がっていきます。そう考えると果てしないストーリーになりますが、プランテーションを実際に見ることもそうそう無いので、ルーツ音楽の歴史背景を深く知ることができた良い機会でした。アメリカ南部へ訪れる際には、一度は行ってみることをオススメします。

オークアレイ・プランテーション(Oak Alley Plantation)
https://www.oakalleyplantation.com/

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