西海岸ヒップホップ黎明期のレーベル特集 2/2
映画『ストレイト・アウタ・コンプトン』を見てからというもの、昨今の西海岸ヒップホップの盛り上がりに加え、筆者のウェストコースト熱に更なる拍車をかけたN.W.A!ということで、西海岸ヒップホップ黎明期のレコード・レーベルを探ってみました。西海岸ヒップホップ黎明期のレーベル特集 1/2の続編でございます。イージー・Eとジェリー・ヘラーが1987年に設立したルースレス・レコードよりも数年前の80年代初期に設立されたレーベルですが、これらの多くは、ルースレス・レコードと同じくアーティスト自身が自分たちの音楽を売るために設立されました。ということで、その数々のレーベルをみていきましょう!Big Shout Out to WEST COAST PIONEERS!!
※レーベルが多いのでパート1とパート2に分けました。パート1はコチラです。
ON THE SPOT RECORDS
オン・ザ・スポット・レコードは1984年に、ノーウォーク・レコード(Norwalk Records)というレコードショップのオーナーであるウィリアム・ジェイ・ウォーカー(William J. Walker)が設立。フアン・ギブソン(Juan Gibson)の「Tha Swami Scratch」というレーベル初のリリース作品は、大量のスクラッチ音がのったインスト楽曲で、裏面にはK-Rock Gの短いラップが収録されています。その後、シュガー・スタイル(Sugar Style)が自身のデビュー作品「Check it out」と「909 The Beat is mine」という作品をリリース。上記2タイトルは数多くの西海岸モノのコンピレーションに収録されています。1985年には、ステイシー・Q(Stacey Q)の「Shy Girl」という作品をリリースし、セールス的に大成功をおさめています。そのあと数年間、シュガー・スタイルとその他多数のアーティストが作品をリリースしましたが、17作品をリリース後、1989年に幕を閉じました。
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PLAYERS ONLY RECORDS
プレイヤーズ・オンリー・レコードはバイロン・デイヴィス(Byron Davis)とダレル・カーブリド(Darrel Carbullido)によって1984年に設立。レーベル初のリリース作品「I’m just a player」は強烈なベースラインが特徴的なアップテンポな曲で数量限定でリリースされました。1985年、バイロン・デイヴィスと彼のグループ、フレッシュ・クルーは「Wanna be’s」に続き、西海岸の名盤「My Hands are quicker than the eye」をリリース。1986年には、「The Drunk」という作品をプレイヤーズ・オンリーからリリースした後、バイロン・デイヴィスとフレッシュ・クルーはマイアミに拠点を移し、フォー・サイト・レーベル(Four Sight label)で活躍しました。
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RAPPERS RAPP DISCO CO.
ラッパーズ・ラッパー・レコードとしても知られているラッパーズ・ラップ・ディスコ・レコードはカリフォルニアのハリウッドを拠点としたラップ・レーベルです。1981年にニューヨークから移住してきたダフィー・フックス・三世(Duffy Hooks III)によって設立されました。キャプテン・クランチ&ザ・ファンキー・バンチ(Captain Crunch & the Funky Bunch) が「The Gigolo Groove」をリリース後、ディスコ・ダディ&キャプテン・ラップ(Disco Daddy & Captain Rapp)の「The Gigolo Rapp」をリリース。ダフィーは、ニューヨークのグランドマスター・フラッシュ・アンド・ザ・フューリアス・ファイヴ(Grandmaster Flash & The Furious Five)をモデルとした6人組のグループを結成するために、カリフォルニアのハリウッドでオーディションを行いました。オーディションに残った6人のファイナリストによりラッパーズ・ラップ・グループ(The Rappers Rapp Group)が結成。メンバーは、LAトップのラッパー5人とDJ兼ラッパーのカリフォルニアのタフト出身の白人男性で構成されました。彼らの最初のリリース作品は1982年の「Rappers Rapp Theme」です。その1年後に、リッチ・ケイソン(Rich Cason)の「Year 2001 Boogie」がこのレーベルからリリースされています。リッチ・ケイソンの「Year 2001 Boogie」では、典型的なオールドスクールラップからヴォコーダーとラップのエレクトリックなサウンドへとスタイルの変化が見られました。リッチ・ケイソンの「Magic Mike Theme」とロイヤルキャッシュ(Royalcash)の「Radioactivity」をサンプリングした「Radio Activity Rapp」はメジャー・シーンへの影響も与えました。1986年に発表されたK-Rock GとCool “Cito” Beeによるブラザー・スープリーム(Brother Surpreme)名義の西海岸名盤「We can´t be held back」もラッパーズ・ラッパー・レコードからリリースされています。
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RAPSUR RECORDS
LAを拠点に活動していたコメディアン、ラス・パー(Russ Parr)は、エジプシャン・ラバーがプロデュースした「We Like Ugly Women」というコミック・ラップで、50,000枚のセールスを記録し成功を手にしました。そのヒット曲で得た資金で、1980年中期に彼が立ち上げたレーベルがラスパー・レコード(RAPSUR RECORDS)です。パーはボビー・ジミー(Bobby Jimmy)名義で活動していましたが、そのボビー・ジミーのキャラクターは彼の子供時代の友人をモチーフに「Big Butt”」「Hair or Weave」「Roaches」といった曲を通してパーのペルソナとして用いられました。パーのクリエイティブな性格から、1987年にはMTVトップコミックビデオ賞を受賞。パーは、ボビー・ジミー・アンド・ザ・クリッターズ名義で数枚のアルバムとシングルをリリースし、「Hair Weave」で100,000枚、「Roaches」で300,000枚を売り上げました。このようなパロディ・ラップが人気になりましたが、ファンの多くはパーとボビー・ジミーが同一人物だと気づきませんでした。パーはそのことを隠す意図は無かったのですが、これが原因となり、彼の歌詞に対して、フェミニストやアフリカン・アメリカンの団体、スピーチ・セラピストからの攻撃が始まりました。NOW(ナショナル・オーガナイゼーション・オブ・ウーマン)のロサンジェルス支部は、「We Like Ugly Women」の性差別的な歌詞内容を理由にKDAYをボイコットすると脅したほどでした。ザ・クリッターズのメンバーであったアラビアン・プリンスは、音楽の才能の持ち主で、パーの作品のほとんどを手がけています。また、彼は「Strange Live」や「It aint tough」「Innovator」といったソロ作品もスパー・レコードからリリースしています。1986年にリリースされた「Bag Bobby Jimmy Jam」がこのレーベルの最後のリリース作品となりました。
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SATURN RECORDS
サターン・レコードの初のリリース作品は、1983年に発表されたアイス-T(ICE-T)の「Coldest Rap」で、アイス-Tの初の作品でもありました。アイス-Tは、テリー・ルイス(Terry Lewis)とジミー・ジャム( Jimmy Jam)の「Cold Wind Madness」のトラック上でラップし、この曲はウィリー・ストロング(Willy Strong)によってプロデュースされました。この作品を発表後、サターン・レコードのプロダクションは、クレタス・アンダーソン(Cletus Anderson)とダフィー・フックス(Duffy Hooks)に変わりました。 ダフィーと彼の父親であるジェリー・フックス(Jerry Hooks)は、 ラッパーズ・ラップ・レーベル(Rappers Rapp Label)の裏方でも主なプロダクションを担っていました。この繋がりにより、リッチ・ケイソンの「Year 2001 Boogie」といった作品は両方のレーベルからリリースされています。1983年に制作され、セールス的にも成功を納めたキャンプテン・ラップのシングル「Bad Times」は、ダニエル・ソファー(Daniel Sofer)がビートをプログラミングするのを手伝い、テリー・ルイスとジミー・ジャムが制作しました。これは、またUnknown DJがアーティストとして初めてクレジットされた作品でもあります。アンノウン・DJ (Unknown DJ)とダニエル・ソファーの共同体制は続き、1984年リリースの「Rhythm Rock Rapp」も共同制作作品です。ドレ(Dre)がスクラッチを担当し、アンノウン・DJがラップ、ダニエル・ソファーがビートを担当したこのレコードは西海岸ヒップホップのマイルストーンとされています。アンノウン・DJが自身のレーベルテクノ・ホップ(Techno Hop)を立ち上げ、ドクター・ドレ(Dr. Dre)がワールド・クラス・レッキン・クルー(World Class Wreckin Cru)としてのキャリアをスタートさせた後も、ダニエル・ソファーは「808 Beats」や「Surgery」といった曲に参加し、才能を発揮しました。1988年にレーベルが閉店するまで何枚かのレコードがリリースされています。
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STREET TALK RECORDS
ストリート・トーク・レコードは、レン・ワイスマン(Len Weisman)とベン・ワイスマン(Ben Weisman)という兄弟が1985年に立ち上げたレーベルです。フレッシュ・キッド・クルー(Fresh Kid Crew)による「Girls of L.A.」は、スクラッチを担当したジャミン・ジェミニ( Jammin Gemini)のアシストによりレーベル初のリリース作品となりました。レーベル3枚目の作品ブラザーズ・スープリーム(Brothers Surpreme)の「We can´t be held back」というラップとヴォコーダーが乗ったアップテンポの楽曲は1年後にラッパーズ・ラッパー・レコードからも発売されました。このトラックはメジャーで大成功を納め、K-Rock GとKool Cito “Bee”がラップし、アントロン(Antron)がビーツを担当し、西海岸名盤入りを果たしました。1986年、ストリート・トーク・レコードはKing MCによる「What have I done for you lately」を発売。ジャネット・ジャクソンの名曲「What Have You Done For Me Lately 」へのアンサー曲で、アメリカとヨーロッパのいくつかのトップ・チャートにランクインを果たしました。「Vanity, I wanna be your bodyguard」というレコードを1986年に発売した後、レーベルは撤退しました。アントロンの「Earthquake」のように、テスト・プレスしかされなかった正式なリリース作品がいくつか存在しています。
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TECHNO HOP RECORDS
アンノウン・DJ自身初のレーベル、テクノ・ホップ(Techno Hop)は1984年に設立されました。ザ・メカニック(the Mechanic)の「808 Beat」「Let’s Jam」「Sweat」やクラインテル(Cli-N-Tel)の「2030」といった典型的な西海岸エレクトロ・ラップの曲で知られています。1986年に、アイス-Tがリリースした「Dog ‘N the Wax」(A面)と「6 in the morning」(B面)がギャングスタ・ラップの幕開けとなりました。NWA とイージー・E (Eazy E)が出てくる1年前のことで、西海岸ヒップホップ黎明期の終わりでもありました。クルー・カット・レーベル(Kru Cut Label)と似ており、ダリル・デイヴィス(Darryl “Lyrrad” Davis)がロゴを制作し、リリース作品の数枚は彼がカバーアートをてがけました。アンノウン・DJがテクノ・ホップの営業を止めた後、2つ目のレーベルとしてテクノ・カット(Techno Kut)をワールド・クラス・レッキン・クルーの創設者であるグランドマスター・ロンゾ(Grandmaster Lonzo)と共に始めました。
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TECHNO KUT RECORDS
テクノ・カットは西海岸のレジェンド、アンノウン・DJとグランドマスター・ロンゾによって1988年に設立されました。レーベルはテクノ・スタイルのトラックのエディットものやサンプルものを多くリリースし、デトロイト・サウンドを少し足したような「X-Men」や「Revenge of the X-Men」、「Professor X Saga」といった作品があります。Techno Kutのリリース作品のB面にはダンスミックスやインストミックスが収録され、未来の音楽を先取りしていました。この音楽形式は2000年代には、テクノエレクトロ(Technoelectro)やエレクトロクラッシュ(Electroclash)として商業的な成功をおさめるまでになりました。テクノ・カットはギャングスタ・ラップをメインに扱う他の西海岸のレーベルとは異なり、さらにテクノ寄りの道を進みました。
ということで、いかがでしょたでしょうか。こちらの記事に出てくる人物名をYoutubeで検索してみると、この時代にヒットを飛ばし、現在は一般市民として生活を送「あの人は今!」といったテレビ番組のようなご本人インタビュー映像が多くヒットしますので、そちらをチェックしますと、これらのレーベルがどうして無くなってしまったのかなど、数々のドラマが垣間みれて面白いです。また、こういったレーベルを始める資金を出した出資者のバックグラウンドが気になりますね!引き続き探っていこうと思います。