ヒップホップ名所探検隊<オークランド編>

ヒップホップ名所探検隊<オークランド編>

突然ですが、YAPPARI HIPHOP今年も西海岸に遊びに行きます!ということで、今回は初めて訪れるヤイエリアこと、ベイエリアのオークランドについてもっと詳しく知りたいということでComplexの「Rap Atlas: Oakland」という記事を参考に、オークランドのヒップホップ文化的に重要なスポットや場所をまとめてみました。90年代のラップ雑誌「4080」の編集ディレクター、エリック・K・アーノルド(Eric.K.Arnold)氏による記事ですが、彼が個人的に思い入れの強すぎる場所やストーリー等は省いております。ちなみに、このラップ・アトラス・シリーズは続編が無いため相当大変な企画だったのではと思います。


まずはじめに、オークランドの音楽を語り始めたらキリがありません。古くはスライ&ザ・ファミリー・ストーン(Sly & The Family Stone) 、タワー・オブ・パワー(Tower of Power)などのベイエリア・ファンクに始まり、トニー・トニー・トニー(Tony! Toni! Tone!)、アン・ヴォーグ(En Vogue)、キーシャ・コール(Keyshia Cole)、ゴアペレ(Goapele)等々、沢山のミュージシャンが輩出されています。ヒップホップの時代になりますと、MCハマー(MC Hammer)、トゥー・ショート(Too $hort)、デジタル・アンダーグラウンド(Digital Underground)、リッチー・リッチ(Richie Rich)、マック・ドレ(Mac Dre)、ミスター・F.A.B(Mistah F.A.B.)、キーク・ダ・スニーク(Keak Da Sneak)、ルーニーズ(Luniz)、ソウルズ・オブ・ミスチーフ(Souls of Mischief)及びハイエロ・クルー(Hieroglyphics)、ブーツ・ライリー(Boots Riley)、近年ではケラーニ(Kehlani)、ジー・イージー(G-Eazy)、カマイヤ(Kamaiyah)などがオークランド出身です。ちなみにE-40はヴァレーホ出身で、オークランドではありません。また、映画『フルートベール駅で』や『ブラック・パンサー』の監督、ライアン・クーグラーもオークランド出身で、『ブラック・パンサー』に登場するキルモンガーは、幼少期にオークランドで育った設定です。黒人の歴史の視点で見ると、1960年代後半から1970年代にかけて台頭してきたブラックパンサー党もオークランド発祥です。ニューヨークのマンハッタンに対するブルックリンのように、サンフランシスコに対するオークランドといった構図になるようです。それでは、スポットを見ていきましょう!


▼オークランド・アラメダ・カウンティ・コロシアム(Oakland Coliseum)
住所:7000 Coliseum Way, Oakland, CA 94621 アメリカ合衆国

ここは、NFLチーム、オークランド・レイダースとオークランド・アスレチックスが試合を行うスタジアムで、ビル・グラハムがデイ・オン・ザ・グリーン・コンサートを開催し、レッド・ツェッペリンが最後のアメリカ・ツアーの最終ライブを行った場所です。ヒップホップの歴史もあり、ここではMCハマーがキーパーソンとなります。イースト・オークランドで育ったハマーは、幼少期にオークランド・アスレチックスの試合をよく観に行き、駐車場でよくダンスをしていたそうです。MCハマーとして有名になる前に、当時のオークランド・アスレチックスの選手、レジー・ジャクソンがハマーはハンク・アーロンと似ているということで、ハマーというニックネームをつけたという話もあります。ハマーは11歳の頃、チケット・ハスラーでコロシアムに通じる歩道で、チケットを売りさばいていました。ある日、オークランド・アスレチックスのオーナーであったチャーリー・フィンリーが、ジェームス・ブラウンの曲に合わせて元気に踊っていたハマーを目にし、フィンリーはハマーをクラブハウスに連れて行きました。ハマーの元気ぶりと才能を気に入ったフィンリーは、ハマーをオークランド・アスレチックスのクラブハウス・アシスタント兼バットボーイとして雇いました。ハマーは当時シカゴに住んでいたフィンリーにチームの状況を逐一報告していたそうです。ハマーは野球選手志望だったものの、夢は叶わず軍に入隊します。そして、ドラム・マシンを購入し、ヒップホップのデモを作り始めます。除隊後、彼はゴスペル・ラップ・グループをスタートし、ホーリー・ゴースト・ボーイと名で活動を始め、仲の良かったオークランド・アスレチックスの選手から、自身のレーベル“Bust It”を立ち上げるための元金を調達しました。リリースした12インチの売り上げは好調で、1987年にデビュー『Feel My Power』をインディペンデントでリリースし、その曲の大半が1988年にキャピトル・レコードと契約を交わした後、『Let’s Get It Started』としてリリースされました。スタジアムのちょうど隣にあるコロシアム・アリーナ(現オラクル・アリーナ)は、ゴールデンステート・ウォリアーズの本拠地です。ここでは、1985年にUTFO、ファット・ボーイズ、ザ・リアル・ロクサーンが出演したフレッシュ・フェストが開催されました。翌年1986年には、ランDMCが大規模なレイジング・ヘル・ツアーを行い、LL・クール・J、フーディニ、ビースティ・ボーイズ、タイメックス・ソーシャル・クラブが出演し、14,000人を動員しました。このコンサートがベイエリアのヒップホップを開花させました。1987年にはデフ・ジャムのツアーでLL・クール・J、フーディニとロクサーヌ・シャンテがライブを行い、ベイエリアからはR&Bグループのニュー・チョイスと、トゥー・ショートが参加しました。1988年にはエリックB&ラキム、UTFO、フーディニと共にN.W.Aがライブを行い、イージー・Eがプロモーターでした。ラップのライブ会場では、いつも喧嘩などを始めるヤツがいますが、1989年の12月、ツー・ライヴ・クルーのライブで乱闘が起き、男性1人が撃たれました。この事件によって、オークランド市は1年間ラップのコンサートを禁止することになりました。禁止令が解けた後も、そこまで多くのラップのライブは行われず、最後にアリーナで開催されるはずだった大規模なライブは、2000年のキャッシュ・マネーでしたが、またもやアリーナ内で暴動が起き、オーディエンスはステージに椅子を投げ入れ、キャッシュ・マネーはステージに出て来られませんでした。


【参考映像】MC Hammer – “Let’s Get It Started”


▼イーストモント・モール(Eastmont Mall)
住所:Eastmont Mall, Oakland, CA 94605 アメリカ合衆国

イーストモント・モールの周辺は、教会、酒屋、ネイルサロン、低所得者用の公共団地、ファミリー向けの一軒家を除いて特に何もありませんでしたが、イーストモント・モールは、イースト・オークランドのド真ん中にあった巨大なモールで、広大な駐車場がありました。クラックブーム前の70年代〜80年代、オークランド市の人口の大部分がアフリカ系アメリカ人だった時代にはとても栄え、多くの中流家庭がマーヴィンズやJ.C.ペニーといった百貨店で買い物をしていました。しかし、ヒップホップが爆発的な人気を得たとたん、フリースタイルでライムをする穴場スポットになりました。具体的には、モールの駐車場でサイドショーが始まったのです。415というグループのメンバーで、後にデフ・ジャムとソロ契約を結んだラッパー、リッチー・リッチの「サイドショー」という曲があります。この90年代のベイエリア・アンセムでは、「バンクロフト・アヴェニューを南下 ライトを目指して ウォームアップさせてくれ ドーナツターンをキメる 隣にはシボレー車 窓はフルスモーク 回転している俺を見て ヤツは興奮状態(続)」といったラインがあります。コマーシャルなラジオ局はこの曲を流しませんでしたが、ストリートでは絶大な人気を誇る永遠のベイエリア・アンセムです。415はメジャー契約をしませんでしたが、それでもなお、強い影響力があり、スヌープ・ドッグは415にちなんで自分のクルー名を213にしたと言及しています。リッチー・リッチの話によると、ある土曜の夜にサイドショーでとても綺麗なキャデラックを発見し、車の中を覗き込んだら、当時オークランドいちのゲットー・セレブだったトゥー・ショートが乗っていたそうです。トゥー・ショートとミスター・ファブが2006年に「サイドショー」のリメイクを制作しましたが、その頃にはサイドショーは別の場所で行われるようになりました。モールの近くに警察の派出所が開設され、サイドショーが閉鎖されたのです。全盛期には、フッドの正式なヒップホップのレコード・ショップだったティーズ・ワウジ(T’s Wauzi)もイーストモント・モールにありました。地元の若手アーティストのテープを委託販売し、当時、アメリカ全国区のアーティストよりも売り上げを伸ばすストリートの人気者もいました。ティーズ・ワウジでセールスを伸ばせば、曲がかかり、他のレコード店やデュストリビューターからも声がかかり、そこからメジャーデビューという流れも夢ではありませんでした。その経路を辿ってブレイクしたラッパーが、E-40とトゥー・ショートです。事実として、80年代から90年代初期のアンダーグラウンドのアーティストは全てこの流れを辿っています。イーストモント・モールは、かつて車やバイクをハイサイドするスポットでした。車やバイクを装飾してイースト・オークランドに住んでいたら、車をみせびらかして異性をひっかけにいくナンパ場所です。イーストモントでは、男性が女性に声をかけ、女性はどの車に乗り込むかを選びます。キャンディ・ペイントして綺麗なリムをつけた車を持っていたら、ウーファーの効いた音響機材も不可欠です。これによって、都市のラップがオークランドに入ってきたのです。イーストモント・モールやハイライディングの雰囲気は、トゥー・ショートやスパイス・ワンの初期の作品、1997年にリリースされた3Xクレイジー(3X Krazy)の「Keep It on the Real」といったオークランドの名曲で感じることができます。イーストモントはフットヒル・ブルーバードが始まる場所で、コンシャス・ドーターズ(Conscious Daughters)が「Funky Expedition」という曲で「バンピー・アス・ストリップ」とシャウトしている場所です。イーストモント・モールは普通のモールで、レストランや洋服店などがあります。その店舗のひとつに、トゥー・ショートがアルバム『ボーン・トゥ・マック』で言及しているミスター・ジーズ(Mr.Z’s)があります。ミスター・ジーズではよくラップのイベントが開催され、アンダーグラウンドで活動するラッパーや将来性のあるラッパーたちが経験を積んでいました。ザ・クープのブーツ・ライリーやキーク・ダ・スニークは、3Xクレイジーを組む前にエイジャーマン(Agerman)とデュアル・コッミティ(Dual Committee)というグループを組んでおり、ブーツ・ライリー(Boots Riley)がザ・クープ(The Coup)の前にいたグループ、マウマウ・リズム・コレクティブ(the Mau Mau Rhythm Committee)と一緒にジョイントライブを開催していました。大規模なイベントも開催されていましたが、1996年に開催したドッグ・パウンド(Tha Dogg Pound)のライブがコントロール不能となり、それ以降次第に下火になりました。ドッグ・パウンドのライブでは、並んでいる列が全く進まず暴動のような感じになり、喧嘩が勃発しました。警察が現場に到着した後も、警官の前でドーナッツ回転を行ったり、警察車両と高速のスピードチェイスをして車を電柱に突撃させる人もいました。それがイーストモント・モールで開催された最後の大規模なラップのライブでした。


【参考映像】415 – “Sideshow”


▼メリット湖(Lake Merritt)
住所はコチラ

メリット湖は、ビースティ・ボーイズとクレイグ・マックが使用したNYクイーンズにあるランドマーク、ユニスフィア(巨大な地球儀)に相当するオークランドにある湖です。オークランドの中心に位置する人造湖は、ベイエリアの中心でノースとウェスト・オークランド、イースト・オークランドとを分けています。(サウス・オークランドはありません)湖の側にはスコティッシュ・ライト・テンプルと呼ばれるメソニック・テンプルがあり、ジオマンシーや測地学に詳しい人にとって意味のある場所です。結婚式や卒業式も行われますが、エーピージー・クルー(A.P.G. Crew)のTAJによると、そこでDJキャッシュ・マニー(DJ Cash Money)がDJジョー・クーリー(DJ Joe Cooley)とDJバトルが行われ、ジョーが勝ったそうです。トゥー・ショートの『Get in Where You Fit In』やミスター・ファブの『Son of a Pimp.』のアルバムカバーが撮影された場所でもあります。以前は、フェスが開催され多くのラップ・グループがライブを行っていましたが、ワイルドになりすぎて閉鎖されました。また、この湖周辺は、車でハイサイドするスポットでしたが、オークランド市がクルージング法(アメリカの州法で、同じ道路を車で何回も乗り回すことを禁止する法律)を制定後、3回連続して車で走り回ると、警察に逮捕されるようになりました。これは完全なレイシャル・プロファイリングで、ザ・クープのブーツ・ライリーは、自身が賛同するヤング・コムラード(Young Comrades)というアクティヴィスト団体と2000年に市議会へ抗議マーチを行いそましたが、今でも「ノー・クルージング・ゾーン」という標識があるので、抗議活動は成功しなかったようです。


【参考映像】Mistah F.A.B. – “Super Sic Wit It”


▼バークレー高校(Berkeley High School)
住所:1980 Allston Way, Berkeley, CA 94704

ここは、デジタル・アンダーグラウンドのDJフューズ(DJ Fuze)、タイメックス・ソーシャル・クラブ(Timex Social Club)、マイク・マーシャル(Mike Marshall)、ザ・パック(The Pack)、リリックス・ボーン(Lyrics Born)の母校です。バークレー高校には、とても優れた音楽と芸術プログラムがあるため、ここにヒップホップの歴史があっても驚くことではありません。1982年にバークレー高校で結成されたタイメックス・ソーシャル・クラブのメンバーは、「Rumors」でデビューした時も在学中でした。「Rumors」は、当時のR&B、ダンスチャートで1位を記録したモンスター曲です。この曲は、当時のヒップホップを流すラジオ局と黒人アーティスト専門のラジオ局との間のラジオ隔離の橋渡しとなり、現在までに最もカバーされている曲のひとつです。1982年、タイメックス・ソーシャル・クラブは最初のニュージャックスイング・グループのような感じで、時代の先端をいっていました。しかし、プロデューサーのジェイ・キングが、メンバーから金を搾り取る形で終わり、R&B グループ、クラブ・ヌーヴォー(Club Nouveau)の結成に繋がりました。皮肉なことに、クラブ・ヌーヴォーの大ヒット曲「Why You Treat Me So Bad」は、タイメックス・ソーシャル・クラブの「Thinking Bout Ya」のリメイクで、1995年にルーニーズ(Luniz)がリリースした「I Got 5 On It」の”Why You Treat Me So Bad”のメロディでサンプリングされています。タイメックス・ソーシャル・クラブのリード・シンガー、マイク・マーシャルがサビを歌っていましたが、またもや彼の名前は作品にクレジットされず、再び不当な扱いを受けました。マイク・マーシャルはマイク・ミージィに名前を変え、ベイエリアのラップ・シーンでサビ歌のキングとなりました。3xクレイジー、アンドレ・ニッカーティーナ(Andre Nickatina)、サン・クイン(San Quinn)、E-40、サーフィアー(Saafir)など、大勢のアーティストと共演しています。DJフューズは、1984年に父親に会うためにニューヨークを訪れるまではヘビーメタルのファンでしたが、ニューヨークから2台のテクニクスSL-1200とラップのレコード持参で帰ってきました。ラジオ局のホスト、のデイヴィ・D(Davey D)がシーンに登場する前に、彼はデイヴィ・Dと名乗っていました。そしてDJゴールドフィンガーという名を経て、DJフューズに改名しました。彼はデジタル・アンダーグラウンドでも象徴的な白人男性で、その後ルーニーズの製作現場でも活躍しました。彼はいまでもクラブでDJをしています。ザ・パックは、ハイフィー・ムーヴメントのピーク時に「Vans」をリリースした時に、まだこの高校の学生でした。この曲は、当時のベイエリアのどの曲とも異なっていました。ヤング・Lが語ったとこによるとこのビートは10分で完成したそうです。ザ・パックはバークレー高校のスケーター集団の一味で、彼らはこのムーヴメントを「パンク・ロック」と呼び、派手な色のTシャツ、スキニー・ジーンズ、スケートシューズに金のグリルズというスタイルでした。トゥー・ショートが、彼らを見つけ自身のレーベルと契約し、その後ジャイブ・レコードからファースト・アルバムをリリースしました。


【参考映像】The Pack – “Vans”


▼スルース・プロの母親の住んでいたフッド(Sleuth-Pro’s Mom’s ‘Hood)
住所:39th street and market st, oakland ca

ここはデジタル・アンダーグラウンドのマネージャー、スルース・プロ(Sleuth-Pro)の母親が住んでいたところで、デジタル・アンダーグラウンドとトゥパックが1989年に初めて出会った場所です。トゥパックは、当時マリン・シティに住んでおり、ハングリー精神旺盛な若者でした。デジタル・アンダーグラウンドが彼をフックアップしたことにより、オークランドに頻繁に訪れるようになり、彼らがツアーに出る時にはローディをしていました。デジタル・アンダーグラウンドは「Same Song」という曲でショック・G(Shock G)が彼を起用し、ソロ活動を始めました。ショック・Gはデジタル・アンダーグラウンド用に作曲した「I Get Around」をトゥパックにあげました。トゥパックはデジタル・アンダーグラウンドのシングル「Wussup Wit The Luv」にも参加しています。デジタル・アンダーグラウンドはドープで、なんでもできるグループで、パーティ、ストリート、コンシャスを混ぜたような感じで多くの創造性やミュージシャンシップへと導いたコレクティブ・メンタリティを持っていました。


【参考映像】Digital Underground – “Same Song”


▼APGクルーのヘッドクオーター(APG Crew HQ)
住所:853 apgar st Oakland
APGクルーはヒップホップ黄金期のベイエリアのグループの一つです。最近では幅広く知られていますが、ハイエロ(Hiero)、ソロサイズ/クワナム(Solesides/Quannum)、デジタル・アンダーグラウンドやホーボー・ジャンクション(Hobo Junction)よりも前に、地元で音を鳴らしていたヒップホップ集団です。APGクルーの名の元にはいくつかのグループとアーティストが存在しており、メロー・マー(Mello-Mar)、J-カット(J-Cutt)、MCマネー・レイ(MC Money Ray)、DJレッド・スライス(DJ Red Slice)、コールド・カミンナップ(Cold Comin’ Up)、ケン&ケブ(Ken & Kev)、現在トゥー・ショートのレーベル・マネージャーをしているターンテーブルT(Turntable T)などがいます。APGは、彼らが住んでいたアパガーというブロックから派生した名前ですが、アクション・パックト・ギャングスターズ(Action-Packed Gangsters)とも呼んでおり、同タイトルの曲が1989年に地元で大ヒットしました。APGがギャングスタのイメージを持たれていたのは皮肉であり、APGのスタジオが登場する1990年のドキュメンタリー『Rap City Rhapsody』のワンシーンを見てみると、コンシャスな一面も持っていたことは明らかです。80年代後期〜90年代初期のラップにおいて、この点を特に強調しておく必要があります。当時のラップは、バックパック、ギャングスタ、ターフまたはコンシャスというサブジャンルは存在せず、全部一緒くたにされ、それはそれで良かったのです。この記事用にロケーションを撮影しに行ったとき、ポーチで男性がくつろいでいました。話しかけてみたところ、その男性がAPGのプロデューサー、アレン・ブラックウェル(写真右上)であることが判明しました。彼は昔500枚のヴァイナルをプレスして瞬時に売り切った話しをしてくれました。


★A.P.G. Crew DJ-JCUTT – Action Packed Gangstas RARE DOCUMENTARY 1991


▼フレモント高校(Fremont High School)
住所:4610 Foothill Boulevard, Oakland, CA

MCハマーは、フレモントの高校に入学しました。しかし、それだけではありません。ハマーによると、1969年にこの高校のバスケットボールの試合のハーフタイム中に考案されたのがロボット・ダンスです。ロボット・ダンスには“オークランド・ヒット”があり、L.A.ブーガルーとは区別されています。ウェストコースト・ブーガルーのシーンは、70年代に大人気で、ヒップホップが登場した時オークランドの人々の準備はバッチリでした。実際に変わったのは、リズムとメロディとは対照的にドラムが重視されたことでした。当初からオークランドやウェストコートがヒップホップ文化を受け入れられたのは、ブーガルーが主な要因であり、すでにシーンに存在していたからです。


【参考映像】MC Hammer – “U Can’t Touch This”


▼ハマーの幼少期の家(Hammer’s Boyhood Home)
住所:4516 Fairfax Avenue, Oakland, CA

ここは、MCハマーが幼少期に住んでいた家です。ノース・オークランドに住んでいたこともあり、ブラック・パンサーのヘッドクォーターがあった場所の近くでした。ハマーから直接聞いた話によると、8歳か9歳の頃から野球の試合のチケット売りを始め、ほぼ毎日コロシアムまで7マイルを歩いたそうです。現在では、あり得ないことだと思いますが、当時のオークランドはコミュニティ指向で、小さな子供が1人でストリートに出ても安全だったそうです。


【参考映像】MC Hammer – “They Put Me in the Mix”


▼スウィート・ジミーズ・ナイトクラブ(Sweet Jimmie’s Nightclub)
住所;579 18th street, Oakland, CA

スウィート・ジミーズは、70年代〜80年代にかけて、プレイヤー、ハスラー、ギャングスターやギャンブラーが頻繁に出入りするクラブでした。サン・パブロ・アヴェニューの横道すぐにあり、1988年にMCハマーが「Let’s Get It Started」のビデオを撮影した場所です。その撮影を行った夜、運命かのようにキャピトル・レコードのエグゼクティブがそのクラブにいました。その重役はそこでハマーを目撃し契約を結ぼうとしましたが、インディペンデントでも十分に稼げているハマーは、契約を交わしませんでした。彼女は再度ハマーを説得し75万ドルで彼と契約を交わし、ヒップホップの人気が爆裂しました。MCハマーがシーンに登場する前、ビースティ・ボーイズの『Licensed to Ill』が売り上げトップのアルバムでしたが、それでも300万枚でした。ハマーは88年に『Let’s Get It Started』でダブル・プラチナムを記録し、1990年には『Please Hammer Don’t Hurt ‘Em』で1000万枚の売り上げを記録しました。ヒップホップをメインストリームのオーディエンスに届けたことに関しては、ハマーがディディ(パフ・ダディ)のモデルとなったと言われていますが、パフィはハマーのようには踊れないでしょう。スウィート・ジミーズはE-40のお気に入りスポットでもあり、トゥー・ショートも頻繁に通っていました。現在もナイトクラブとなっていますが、スウィート・ジミーズではなく、ニュー・パリッシュという名前で、サンフランシスコにあるジャスティス・リーグというナイトクラブを運営していたマイク・オコナーと、ゴアペレの兄弟、ナーマン(Namane)がオーナーとなっています。


【参考映像】MC Hammer – “Ring ‘Em”


▼デンジャラス・ミュージック・スタジオ(Dangerous Music Studios)
住所:1534 myrtle street, Oakland, CA

ランディはトゥー・ショートのレーベル、デンジャラス・ミュージックの裏の立役者です。テッド・ボハノンという男と一緒にトゥー・ショートの古くからのパートナー、フレディ・Bも加わり、デンジャラスは1986年にスタートしました。トゥー・ショートが1985年〜1986年にかけてリリースされた最初の3枚のアルバムを出した75ガールズ・レコードから離れた後のことです。トゥー・ショートは75ガールズから出した作品で、沢山の名声と地元での評判を得ていましたが、ロイヤリティを全くもらっていませんでした。そのため、自分の金稼ぎと仕事をきちんとしたのです。デンジャラスから出した最初のトゥー・ショートのアルバム『Born to Mack』という作品は、実際にはトゥー・ショートの4枚目のアルバムでしたが、ある意味、彼の最初のオフィシャル作品といってもよいでしょう。75ガールズの作品もレジェンド級ですが、それほど幅広い流通はされなかったので、『Born to Mack』が大手流通した最初アルバムでした。アルバムがリリースされる前に最初のシングル「Freaky Tales」がリリースされ瞬時に名曲入りとなりました。「Freaky Tales」と『Born to Mack』はどちらも飛ぶように売れ、それらがウェストコースト・ラップの知名度をあげました。1987年頃、当時そこまで多くのラップ・アルバムはありませんでしたが、ジャイブ・レコードが『Born to Mack』を再発し、1988年には全米で販売され、1990年には『Life Is… Too $hort』と、1992年には『Short Dog’s in the House』がリリースされ、これらは、トゥー・ショートのもっとも本質的な3作品と言えます。1534マートルは、デンジャラス・ミュージック・スタジオがあった家です。デンジャラスの作品は「Dope Fiend Beat」のラップ・スタイルが特徴で、当時のオークランドやベイエリアには遍在しているスタイルでした。ベースが効いていて、とてもスローテンポで、ファンキーでダーティなラップをトップの乗せる感じです。「Dope Fiend Beat」のサビ「ビヤーッチ」という表現もここに由来しています。数えきれないほどのラッパーがこの「ビヤーッチ」を使っていて、この「ビヤーッチ」をベースにしたE−40とトゥー・ショートはの曲もあります。Jデンジャラスはその頃にレコードでコンピレーションアルバムを作っており、スパイス1やその他大勢のアーティストが参加しました。また、キッド・ロック(Kid Rock)のファースト・アルバムもデンジャラス・スタジオでレコーディングされました。デンジャラスは、最終的にはジャイブ・レコードと流通契約を結び、トゥー・ショート、スパイス1、MCプー(後のプー・マン)、ミザーニ(後のゴールディ)、アート・バンクス、デンジャラス・デイムなどの作品がリリースされました。スパイス1のデビュー・アルバムはゴールド・ディスクに輝きました。デンジャラスは1996年にジャイブ・レコードでコンピレーションアルバムをリリースし、ファーザー・ドムやJ -ダブといったオークランドの新人アーティストが沢山参加しました。トゥー・ショートがアトランタに移住後、彼らはショート・レコードにレーベル名を変え、リル・ジョンが1998年に出したファースト・シングル「Couldn’t Be a Better Player」を担当しました。これらのアルバムは、時代と環境の産物です。ショートは、80年代、クラック蔓延直後にイースト・オークランドにやってきました。当時の現場にいなければ、それがいかにワイルドであったか想像することしかできません。トゥー・ショートはストリートで起きていたことや卑猥な内容、自慢ごとなどをラップしましたが、彼はそこで何が起こっていたのか真実を伝えています。必ずしもギャングスタである必要はありませんでしたが、ギャングスタがそれを好んだのです。


【参考映像】E-40 – “Bitch (feat. Too $hort)”


▼ヘンリー・J・カイザー講堂(Henry J. Kaiser Auditorium)
10 10th St, Oakland, CA 94607-4800

ここは、ビル・グラハム・プロダクションが運営している会場で、ヒップホップのライブがよく開催されていました。ここで、N.W.A、EPMD、ステッツァソニック、パブリック・エネミー、ジャジー・ジェフ&ザ・フレッシュ・プリンスのライブを見た記憶があります。1989年のことだと思いますが、このライブ会場で暴動が起きました。N.W.Aのライブ中に、イージー・Eがおもちゃのピストルを空中に発砲し、会場が荒れました。結果として大混乱となり、69 Ville(イースト・オークランドのプロジェクトで、ドラッグ・ディーラーFelix “the cat” Mitchellの地元)というギャング・メンバーが、視界に入る限りの白人男性を全て打ちのめしました。結局パブリック・エネミーはステージに登場せず、この事件は、オークランドでのラップ・コンサート禁止令に貢献したライブのひとつです。警察はオーディエンスを阻止することができず、当時は真剣にヒップホップに恐怖を感じていました。振り返ると、1990年がベイエリアのヒップホップのピークだったので、本当に不運でした。トゥー・ショート、ハマー、デジタル・アンダーグラウンドがゲームのトップに君臨し、100,000枚、さらに1000,000枚を売り、ソールドアウトの全国ツアーで各地を巡っていましたが、地元のオークランドではライブができない状況でした。この禁止令は、1990年の大晦日に解除され、アイス・キューブ、ヨー・ヨー、デンジャラス・デイムとキッド・ロックと共にトゥー・ショートをヘッドライナーに迎え「ストップ・ザ・バイオレンス」を掲げたライブが開催されました。いつもより強化したセキュリティ、金属探知機などが用意されました。このライブに関しては、L.A.とニューヨーク・タイムスの両方で執筆され、大惨事は起こりませんでした。1991年、ビル・グラハムが亡くなった後、彼らはカイザー講堂でのライブ興行をやめました。1996年、4080が協賛したゲヴィン・セッションズというコンベンションが開催され、多くのラップ・アーティストやインディーレーベルが集まり開花しました。ピーナッツ・バター・ウルフは、ちょうどストーンズ・スロウをスタートしたタイミングで、筋金入りのブラッズ・ギャング3人のブースの隣で、テーブルに置いた12インチのレコードを売っていました。凄い光景でした。そのコンベンションのハイライトは、少し前に亡くなったトゥーパックに捧げられたリッチー・リッチのライブで、リッチはバイクに乗ってステージに登場し、パックの写真を映した巨大なスクリーンをバックに「Do G’s Get to Go to Heaven」をパフォームしました。会場は大喝采でした。その後、1999年にザ・ルーツ主催のライブがあり、マイケル・フランティが、ラジオ局KPFKの慈善興行のためにライブを行いました。また、2006年にハリケーン・カトリーナの被災者のための慈善コンサートでベイエリアのラッパーが集合しました。トゥー・ショートとザ・デリンケンツとスパイス1、サン・クイン、ミスター・ファブ、ザ・フロントライン、トニー・トニ・トーンのドゥエイン・ウィギンズが出演しました。


★Richie Rich – “Do G’s Get to Go to Heaven?”


▼インフィニティ・スタジオ(Infinite Studios)
住所:3121 Marina Drive, Alameda, CA

このスタジオの所有者はマイケル・デントンです。70年代は、主にプログレッシブ・ロックを扱っていましたが、80年代初期にR&B作品にも携わり始め、DJ用のレコードや初期のベイエリアのヒップホップ楽曲も手がけました。インフィニティ・スタジオの転換期は、「I Got 5 On It」のオールスターリミックスです。マイケル・デントンはアラメダにある小さな閑静な住宅でトラックをレコーディングしました。今でもベイエリアでこの曲をかけると大勢の人が反応し、特にリッチー・リッチのラインは人気です。「I Got 5 On It」は、おそらくベイエリアのラップ史の中で一番のアンセムとなっている曲です。ビルボード・ホット100で8 位を記録し、世界各地でトップ10に入りました。オランダでは1位です。リミックス版の注目すべきことは、今までに共演歴の無い多くのMCが一緒に参加したことです。ルーニーズは、ドゥルー・ダウンとリッチー・リッチと共演したことはありますが、E-40やデジタル・アンダーグラウンドのショックG、スパイス1と共演したことはありませんでした。マイケル・デントンはこの曲を通してE-40と出会い、それ以来E-40と一緒に仕事をしています。


【参考映像】Luniz f/ Dru Down, Richie Rich, Shock G, E-40, Spice 1 – “I Got 5 on It (Remix)”


▼4001倉庫(4001 Warehouse)
住所:4001 san leandro ave Oakland

ここはイースト・オークランドにある倉庫で、アーティストが生活しながら創作活動をするロフト・コミュニティのようなものです。クリエイティブでアンダーグラウンドかつアーティスティックなバイブスに溢れていました。90年代中期は、ミスティック・ジャーニーメン(Mystik Journeymen)がここに住んでおり、彼らはここで活動を始めたばかりでした。「Unsigned and Hella Broke」や「Independent as Fuck」の時代です。レーベルやCDもなく、彼らの作品は自家製のカセットテープでした。よくトップ・ラーメン・パーティを開き、そこには7~
8ぐらいのグループが出演し、入場料は数ドルもしくはトップ・ラーメン(インスタント・ラーメン)を持って来るのが決まりでした。その後、オークランドからグロウチ(Grouch)とビカソ(Bicasso)、LAからイーライ(Eligh)とマーズ(Murs)、フレスノ出身のエイソップ(Aesop)、日本からきたアラタというメンバーが引っ越してきました。彼らはやがてリヴィング・レジェンズ(Living Legends)として活動をスタートしますが、最初はほんのジョークでした。彼らはバークレーのテレグラフ・アヴェニューでテープを売り始め、ラ・ペナという会場で「アンダーグラウンド・サバイバーズ」という月1のライブショウケースを開催していました。1996年、イースト・ベイ・エクスプレス用に彼らを取材するため、その倉庫に行きましたが、3枚の壁とカーテンで仕切られた仮設住宅のようなものでした。ピーターパンの物語に出てきそうな代物でしたが、4001はリヴィング・レジェンズの伝説がスタートした場所です。


★Living Legends – After Hours


▼ハイエロ・コンプレックス(Hiero Complex)
住所:1200 50th ave Oakland

ハイエロ・コンプレックスはヒップホップ博物館に近いような事務所で、壁にポスター、アルバム、シングル、ツアーのポスターなど93年以降の記念品を飾っています。ハイエロは、ウェスト・オークランドのマグノリア・ストリートに事務所を構えていましたが、数年前にイースト・オークランドの物件を購入し、そこに移り、コミュニティに還元しています。どのメンバーも余分な派手さはありません。昔はメジャーレコード会社と契約したハイエロですが、彼らがマスタートラックを所有していたので、結局彼ら自身でリリースしていました。90年代後期から、彼らは一貫してインディペンデントでやっています。レーベルのブランディングに関して、ハイエロのロゴはラップ・デザインの中で最も象徴的なものです。デル(Del the Funky Homosapien)のアルバムやソウルズ・オブ・ミスチーフのアルバムを買ったことがなくても、皆あのシンボルは見たことがあるはずです。ハイエロ・コンプレックスには、ハイエロのメンバーそれぞれのオフィスがあり、彼らの多くは自身のスタジオを持っているので、各自でプロジェクトを進めています。常にレコーディングをし、各々でコラボレーションをするので、たくさんのプロジェクトが進行しています。タジャイ(Tajai)はクリア・レーベルを運営し、ビーダ・ウィーダ(Beeda Weeda)、シェイディ・ネイト(Shady Nate)など、ハイエログリフィクスに合わないようななどオークランドのラッパーたちを擁護しています。またフーディやTシャツなどのグッズも販売しており、とても賢いオペレーションです。建物の外壁にはユース・アップライジングの子供達がペイントした壁画があり、ペップ・ラブが自分たちでペイントしたと話してくれました。
★Hieroglyphics – “Don’t Hate the Player, Hate the Game” https://www.youtube.com/watch?v=tEjfRufNFiw


▼ザ・ミュージック・ピープル/イン-ア-ミニット・レコード (The Music People/In-A-Minute Records)
住所:1025 west macarthur blvd oakland, ca
https://www.google.com/maps/place/1025+W+MacArthur+Blvd,+Emeryville,+CA+94608,+USA/@37.82824,-122.2804748,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x80857e11bf25bab1:0xa831e079c1ef329!8m2!3d37.82824!4d-122.2782861?hl=en

ザ・ミュージック・ピープルは、オークランドに巨大な倉庫を所有し、音楽流通会社として始まりました。DJビジネスをしている人であれば、小売りの値段以下でレコードが買えました。90年代初期に、彼らは音楽レーベルとなり、アント・バンクスがプロデュースしたMCプーの「Fuckin’ Wit Dank」をカセットのみでインディ流通しました。アンセム認定された「Fuckin’ Wit Dank」はローカルでいいセールスを残しました。その曲では、マリファナの使用を主張するほかに、セミナリー地区や、98番通りとウォルナット・ストリートの交差点、72番アヴェニューといったオークランドの地名をシャウトしています。「Fuckin’ Wit Dank」は、トゥー・ショートのように結果的に100,000枚を売り、当時のインディペンデントのリリースにしては相当メジャーな数の売り上げを記録しました。その後、ザ・ミュージック・ピープルは子会社レーベル、イン-ア-ミニット・レコードを設立し、1990年代半ばから中頃にかけて、ベイエリア・ギャングスタ・ミュージックの市場を席巻しました。MCプーはジャイブ・レコードと契約し、プー・マンになりましたが、イン-ア-ミニット・レコードは、影響力のある数多くの作品をリリースしています。1992年、RBLパッシーの「Don’t Give Me No Bammer Weed」というシングルがアンダーグラウンドで大ヒットを飛ばし、100,000枚売れ、RBLの2枚のアルバムもそれに続きリリースされました。作品にクレジットされていませんが、リック・ロックはRBLのセカンド・アルバム『Ruthless By Law』で制作に携わり、250,000枚を売り上げました。イン-ア-ミニット・レコードは、また、マスター・PとPの奥様、ソニアがまだリッチモンドに住んでいた時の最初の録音作品もリリースし、サンフランシスコのレイクビュー出身のI.M.PというN.W.Aのようなグループの作品も出し、トゥー・ショートの75ガールズ時代のアルバムを『The Player Years』というタイトルのダブル・ディスクで再発したりしました。彼らは毎年、駐車場で盛大なBBQをよく開催し、ラップを扱っているベイエリアのインディーレーベルほとんどが、オークランド、リッチモンド、イースト・パロ・アルト、サンフランシスコ、ヴェレホなどなど各エリアから参加していました。その後、そこで働いていた人の何人かでドッグ・デイというレーベルが設立され、11/5、ザ・クープ、ダークルーム・ファミリアによるアルバムがリリースされました。それは全てオークランドの倉庫から始まりました。結果として、ミュージック・ピープルとイン-ア-ミニット・レコードは閉業となり、この建物は現在、オークランド市の所有となり、木の板で覆われています。


★Pooh-Man – “Fuckin’ Wit Dank”


▼FMスタジオ (FM Studios)
住所:5765 lowell st oakland

FMスタジオは、2タフ・イナフ・プロダクション(2 Tuff E-Nuff productions)というグループのトーマス・マッケルロイとデンゼル・フォスターのホームベースです。彼らはクラブ・ヌーヴォゥのアルバムをプロデュースする以前に、タイメックス・ソーシャル・クラブから関わっていました。そして、エン・ヴォーグのプロデューサーになりました。基本的に、彼らは80年代後期のヒップホップ/R&Bのクロスオーバー系作品全てのモデルとなり、メアリー・J・ブライジのような人々の道を切りひらきました。ゴアペルもそこでファースト・アルバムの大半をレコーディングしています。FMスタジオはベイエリアにある独創的なスタジオのひとつです。数年前、名前をFMレコーダーズに変更し、他のアーティストにも開放するようになりました。トミーはまだそこで働いていますが、デニーは現在LAに拠点を移しました。E-40もそこでレコーディングし、トゥー・ショート、ベイビー・バッシュz(Baby Bash)、The R.O.D. Project、ギフト・オブ・ギャブ(Gift of Gab)、ラーシャン・アーマド(Raashan Ahmad)といったアーティストがレコーディングをしています。とてもドープなスタジオで、そこでは歴史を感じることができます。


【参考映像】En Vogue – “Hold On”


▼ユース・アップライジング(Youth UpRising)
住所:8711 MacArthur Boulevard, Oakland, CA

ユース・アップライジングは、ハイエログリフィクスのAプラス(A-Plus)が通っていた高校、キャッスルモント高校の隣にあります。このセンターは、人々によって設立された青少年育成コミュニティ・センターとしてスタートしました。ユース・アップライジングはインナー・シティ・キッズの状況を向上させることが全てです。青少年の子達が、放課後にポジティブな活動に従事できるよう職業訓練や職業斡旋のプログラム、音楽スタジオなどがあります。2006年、E−40の「Tell Me When to Go」のビデオがそこで撮影され、このセンターのターフ・ダンサーズが起用されました。ターフィン・ムーブメントが構想されたスポットのひとつがユース・アップライジングです。ザ・アニマニアックス(The Animaniaks)、アーキテックス(Arkiteks)、ターフ・フィエンズ(Turf Feinz)といったクルーはみんなここから活動をスタートしました。そして、多くのラッパーたちがユース・アップライジングに関わっています。トゥー・ショートはそこでボランティアをし、ハイエロのカジュアル(Casual)はスタッフとして働き、ミスター・ファブはよくフリースタイル・バトルの司会をやっていました。E-40やJ・ディグスは、サンクス・ギヴィングの際にスニーカーや服を配布したりしていました。センター全体が非暴力に専念しており、それを表現する手段としてヒップホップを受け入れているのは、とてもドープです。


【参考映像】E-40 – “Tell Me When to Go”


▼ザ・グリル(The Grill)
住所:4770 San Pablo Avenue, Oakland, CA

90年代ベイエリアの”モブ・ミュージック”のプロデューサー、レブ・バーレック(Lev Berlak)がザ・グリルを運営しています。レブはセント・ルイス出身の白人男性ですが、クールでリアルな人物です。ザ・グリルはもともとフルートベール・アヴェニューにありましたがエメリービルに移りました。そこにいつも居たのがリッチー・リッチです。レブとリッチの結束はとても強靭です。レブは、リッチの415以降の作品を数多くプロデュースしており、ヤング・ブラック・ブラザ(Young Black Brotha)を去り、シズ(Thizz)を始める前のマック・ドレの作品も多くプロデュースしています。この記事を執筆するためにスタジオを訪れたとき、スタジオではジャッカ(Jacka)とハサラー(Husalah)とすれ違い、リッチもいました。ジャッカは、カナビス・クラブから買ってきたメディカル・マリファナを持参し、ビュッフェのようにテーブルの上に広げました。レブは、彼のためにビートを流し、みんなでマリファナを吸いました。ジャッカがブースに入り、そこで書いた2バースをレコーディングしました。リッチが入ってくると、若手ラッパーたちからリッチに対してどれほどの尊敬を抱いているのかがよく分かります。リッチはベイエリアのOGであることは間違いありません。彼はマック10のレーベルと契約を結んだところで、新しい作品をリリースしようとしていました。ともかく、たわいもない話をしてジョイントを吸いまくりました。そして、ジャッカがマンチーズ状態になり、チキンウィング店で100個ぐらいのチキンウィングを注文しました。チキンウィングは5分ぐらいで全部無くなりました。リッチはトゥパックについて語り、彼の友人ラッパーが、パックがその友人のラッパーのために書いた曲に関して、アフェニ・シャクールを訴えているという話をしました。その友人ラッパーは、いまではそれを自分で書いたと主張しています。リッチは「トゥパックは俺の友達だから、この件には関われない」という感じでした。リッチはいつもジョークを飛ばしていますが、トゥパックの話をする時はいつも真剣です。そして、ある男が2枚の契約書と2人の結婚相手と共にスタジオにやってきて、リッチにめちゃくちゃな契約をさせようとしたのを追い払ったという話をして、リッチはブースに入りマイクをマーダーしました。レコーディングした曲を改めて流すと、ジャッカとハサラーは口をあんぐり開け驚愕していました。


【参考映像】Richie Rich – “D.O.E.”


▼ジェフリーズ(Geoffrey’s)
住所:410 14th street, Oakland, CA

ジェフリーズは、オークランドのアフリカン・アメリカンのコミュニティの著名人、ジェフリー・ピートが所有しているクラブでした。ラグジュアリーなスポットとして知られているようですが、その場所では何年にも渡ってヒップホップのライブを観ることができました。レーベルのショウケースが行われ、トゥー・ショートの「Player’s Balls」のショーケースもここで行われました。ジェフリーズでの筆者のヒップホップの思い出は、ラウド・レコードが開催した有名になる前の若かりしイグジビット(Xizibit)のショウケースです。彼は、既に『パパラッチ』をリリースしていましたが、誰も彼のことを知りませんでした。これは『ビッチ・プリーズ』やTV番組の「ピンプ・マイ・ライド」などよりもずっと前の話です。


【参考映像】Xzibit – “Paparazzi”


▼ファンタジー・スタジオ(Fantasy Studios)
住所:2600 10th Street, Berkeley, CA

ファンタジー・スタジオはとても長い歴史があります。50年代以来、彼らはジャズ・レーベルとして名高い大量のレコーディング・カタログを持っています。スタックス・レコードやヴォルト・レコード、クリーデンス・クリアウォーター・リバイバル、ブラックバーズなど、アーティストが多すぎて、ここでは書ききれません。彼らは1970年代にバークリーに移りました。現在、彼らはアメリカで一番大きなインディペンデント・レーベルです。このスタジオでは、ジャーニーの「Don’t Stop Believin’」など数多くの作品がレコーディングされ、ミキシングされました。スタジオに行くと、ゴールドやプラチナムレコードが沢山あります。彼らはギャラクシーのようないくつかのサブ・レーベルも持っています。80年代にはリアリティというヒップホップ・レーベルもありました。また、ダニア・レコードの流通も行なっていました。ダグ・E・フレッシュ・アンド・ザ・ゲット・フレッシュ・クルーの「The Show」や「La-Di-Da-Di」といった12インチのヒップホップ名盤、ダグ・E・フレッシュの最初の2枚のアルバム、ロックマスター・スコットの「The Roof is On Fire」、タイメックス・ソーシャル・クラブのアルバムをリリースし、トゥー・ショートの「Born to Mack, Life Is…Too Short」「Short Dog’s in the House」もここでミキシングされました。デジタル・アンダーグラウンドのファースト・シングル「Your Life’s A Cartoon」もここでレコーディングされました。歴史ですね!


【参考映像】Digital Underground – “Your Life’s a Cartoon”


テレグラフ・アべニュー(Telegraph Ave)
住所:telegraph ave dwight way, berkeley, CA

バークレーにあるテレグラフ・アベニューは、80年代から90年代初め頃はヒップホップのスターゲイトのようでした。オークランドからバークレーの大学キャンパスまで通じる長い通りで、51番と40番線のバスが走っています。安いビールが飲めるバー、マリファナ用品店、衣料品店、安いレストラン、ピザ屋、ゲームセンターなど大学生を対象にした小売店と、4つの主要レコード店、タワー・レコード、ラスプーチン・レコードZ(Rasputin)、レオポード・レコード(Leopold)があり、後にアメーバ・レコード(Amoeba)が開店しました。ウィード、プッシー、そしてアルコール、そしてヒップホップがある場所はどこもヤバイです。75 Girls時代のトゥー・ショートの楽曲で「Invasion of the Flat Booty Bitches」という曲では、トゥー・ショートがテレグラフ・アヴェニューを車で走り、白人やアジア人の女子大生を見て、彼女たちのお尻の平らさに不満を表していて面白いです。それに加えて、キャンパス外の教会の地下にカレッジ・ラジオ局KALXがあります。筆者が初めてグランドマスター・フラッシュの「ザ・メッセージ」を聴いたのがKALXです。KALXは1983年〜1984年の間、頻繁にヒップホップを流し始めました。1990年にギャビン賞で最優秀ヒップホップ・ラジオ番組を受賞したこともあり、当時あったどのコマーシャル番組よりも優れていました。KMELというラジオ局がオンエア曲をヒップホップに転換した際に、KALXのフォーマットをパクリ、KALXのDJを雇うということもありました。KALXのDJラインナップは素晴らしく、デイヴィ・D、ベニ・B、ナッティ・プレップ、ビリー・ジャム、ネイト・コープランド、ネオン・レオン、リッキー・ヴィンセント、タム&サジキ、ジャー・ボンズなどがおり、みんな地元の音楽の強力なサポーターで、多くの地元アーティストをゲストに招いていました。デジタル・アンダーグラウンドは、ベニ・Bの番組にいつも登場し、デジタル・アンダーグラウンドのマネージャー、スロース・プロは共同司会をしていました。そのため、オフィシャルでのリリース前に、彼らの楽曲がKALXで聴くことができました。デイヴィー・Dは、タムと共に日曜朝の番組を持っており、当時は相当忙しかったに違いありません。彼らは専門的には広報や文化庁のようなものでしたが、新譜を多く流して地元で絶大な人気を誇りました。基本的に、全国区のアーティストはKALXに立ち寄り、日曜朝の番組で曲を流してもらい、レオポードでインストア・イベントをこなし、夜にはウェイク・アップ・ショウに出演するというルーティンでプロモしていました。デイヴィ・DはKRS-ONEやチャックDのような人々の電話インタビューを沢山行い、非常に多くのアーティストがこのラジオ局を訪れました。KALXの最高の出来事は、サイプレス・ヒルがビリー・ジャムの番組に出演したときだと思います。ラジオ局内は禁煙でしたが、こればっかりはサイプレス・ヒルです。人が行き交う道端で沢山のジョイントを回し、それを誰かが通報してしまいました。ビリーはこの件で問題になったと思いますが、このようなエピソードが原因で、このラジオ局はエシェルマンにあるキャンパス内の地下に移動しました。当時、ヒップホップのレコードを買うなら最高のスポットはレオポードでした。レオポードでは、中古のファンカデリックといったカット・アウト・レコードが沢山あり、DJはいつもそこでレコードを掘っていました。デル・ザ・ファンキー・ホモサピアンはそこで少し働いており、ブギー・ダウン・プロダクションやスーパー・キャットなど多くのインストア・イベントが行われました。ラスプーチンにも多くの中古レコードがありました。80年代後期〜90年代初期、週末の土日は、テレグラフ・アヴェニューがスポットで、半径15マイル内に住んでいるティーンネージャーや若者は皆遊びに出かけていました。そこでは、サイファーのために沢山のラッパーが訪れ、ハイエログリフィクスのAプラスは、そこでウィードを売りつつサイファーにも参加していました。80年代初期にはスプロール・プラザ(Sproul Plaza)でブーンボックスやブレイク・ダンサーたちが多く見られ、みんな大きなブーンボックスをスケートボードで運んでいました。90年代後期のテレグラフは、ハスリング時代で、ホーボー・ジャンクションとミスティック・ジャーニーメンは他のアンダーグラウンドのラッパーたちと共にテープを売っていました。歩行者が沢山いたので、そこで1日中テープを売ることが可能でした。カリフォルにはには、ステューデンツ・フォー・ヒップホップ(Students for Hip-Hop)という団体があり、スプロール・プラザでフリースタイル・バトルが行われ、ピープルズ・パークでは毎年ヒップホップ・イン・ザ・パークというコンサートを開催していました。その後、アメーバ・レコードが開店して、ヒップホップのスポットになりました。ザ・ウェイク・アップ・ショウ(the Wake-Up Show)のDJ、ジョー・キックス(Joe Quixx)は、そこでヒップホップのバイヤーとして働き、業界を乗っ取りました。ラスプーチン・レコードも地元のラップに力を入れ始め、結局レオポード・レコードとタワー・レコードは廃業に追いやられました。プラネット・エイジア(Planet Aisa)とジャマルスキ(Jamalski)もアメーバ・レコードで少し働いていたことがあります。ラスプーチン・レコードとアメーバ・レコードは地元アーティストの作品を販売しました。ベイエリアには、全国区のアーティストより、ストリートで話題になっているローカルなアーティストが売れるという歴史があります。


【参考映像】Too $hort – “Invasion of the Flat Booty Bitches”


▼バスの40番/43番線(The 40 & 43 Bus Line)

トゥー・ショートは75-Girls時代前に、この路線のバスに乗車し、自作のテープを売っていました。レーベル会社との契約や作品リリースを手に入れる以前に、彼が最初のヒップホップのストリート・プロモーターの1人で、生粋のDIYハスラーであるのはこのためです。彼の名声は、正真正銘ゼロから築き上げられ、何も無いところから始まりました。トゥー・ショートに関しては、ラップのテクニカルな部分や抒情的なラッパーであることにおいて、優れているとはあまり言われません。しかし、彼のスタイルは成功を収めました。イケてるピンプ、プレイヤーであり、彼のラップは止まりません。カセットテープの両サイドの尺を埋めるために、沢山ラップしないといけず、16小節どころではありませんでした。近頃は、トゥー・ショートのように40番バスが停まるブロードウェイの角に立ってCDを売る伝統に倣うキッズもいます。これらの2本のバス路線は、イーストからバークレーまでオークランド中を網羅しており、特に車を持つことができない若いキッズにとってはライフラインで、40番と43番のバスに乗ってフッドの外へ行くことができました。ハイエログリフィクスのタージェイとAプラスはバトル・サイファー時代にこれらのバス路線に乗り、バークリーのテレグラフ・アヴェニューに通っていました。


【参考映像】Too $hort – “Don’t Stop Rappin'”


▼セントラル・ビル(Central Building)
住所:436 14th street Oakland

ここは、1926年に建てられたオークランドにある古いオフィス・ビルです。ダウンタウンの中心にある17階建てのビルで、ドアマン、エレベーターなど全て上品な建築様式で、多くの非営利団体がそこで運営されています。90年代後期には、ベイエリア・ヒップホップ連合とベニ・Bのレーベル、ABBレコードやハイエロ・エンポリウム、クアナムになる前のソールサイズなどがありました。彼らはビル内で顔を合わせ、互いにインディペンデント・レーベルとしての戦略を練っていました。トゥパックが殺害され、メジャーのレコード会社が西海岸やベイエリアのラップを見捨てた後、インディのヒップホップのアーティスト達が、ベイエリでの活動を保持していました。彼らはインディペンデントの水準で活動し、ビジネスはしっかり管理され、質の高い作品をリリースしていました。1999年か2000年代初期に、筆者はここでサンフランシスコ・ベイ・ガーディアン誌用にヒップホップの現状を話し合うQ&A形式の円卓会議を行いました。そこにはベニ、ブラックリシャス、ハイエロのドミノ、当時ベイエリアに住んでいたプラネット・エイジアが集まりました。今でもこのときのインタビューは私のお気に入りです。


【参考映像】Hieroglyphics – “You Never Knew”


▼オ・コクレ(Au Coquelet)
http://www.aucoquelet.com/
住所:2000 University Hall, Berkeley, CA

オ・コクレは多くの学生が立ち寄る素敵で静かなコーヒーショップです。リリックス・ボーンのファースト・ソロ・アルバム『Later That Day』がここで書かれました。リリックス・ボーンを知っていたら、ステージに立っていないときは彼が物静かで気取らない人物であることを知っているでしょう。世界的に知られているヒップホップ・スターであり、インディー・レコード・レーベルのオーナーで、素晴らしい作品を制作しドープなミュージシャンと共演している人だとは想像もつきません。おそらくバークレー大学の卒業生か何かだと思うでしょう。私は2005年にエーストベイ・エクスプレスのカバーストーリーでリリックス・ボーンを取材し、彼はこのカフェでのインタビューを希望しました。


【参考映像】Lyrics Born – “Callin’ Out”

ということで、旅行出発直前にバッタバタでアップしており多少雑な部分もありますが、こちらで紹介しているスポットはこちらのGoogleマップで纏められているので、気になる方はこちらもチェック!そしてNetflixの『ヒップホップ・エボリューション』シーズン2の「カリフォリニア:ベイエリア」も合わせて観るのがオススメです!

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