オーラル・ヒストリーで語られるハイフィーの歴史

2000年代に西海岸のベイエリアで発祥したハイフィー・ムーヴメント。そのハイフィーの人気絶頂から約10年の月日が経った今、「ベイエリアの主要な人物たちが語るハイフィーの歴史と物語」ということで、スティーヴン・J・ホロヴィッツ氏(Steven J. Horowitz)による「An Oral History of Hyphy The story of the Bay Area’s hyphy movement told by the people who built it.」という2016年にComplexに掲載された記事を訳してみました。ここ数年の米国ヒップホップ市場にもベイエリアの風が吹いておりますが、筆者もその風にまんまと吹かれていまして、特にオークランド産のヒップホップに熱中しておりました。2000年代に流行ったハイフィーはリアルタイムで聴いておりましたが、当時はそこまでハマらず、最近になってムーヴメントの成り立ちが気になりだした頃に発見した記事になります。こんな複雑な歴史があったとは!と驚きつつも、最近話題のオークランド出身の女ラッパー、カマイヤー(Kamaiyah)にまで繋がる内容です。それでは、どうぞ!

キーク・ダ・スニークとE-40
2006年オークランドで行われた「Tell Me When To Go」MV撮影現場にて (Image via D-Ray)

ベイエリアのアイコン、E-40はNBAファイナルの試合でゴールデンステート・ウォリアーズ側の席に座っています。イエローとブルーのフーディと1989年に設立した彼のレーベル、シック・ウィド・イット・レコードのずっしりとしたチェーンでキメています。その夜、ウォリアーズは1勝3敗でクリーブランド・キャバリアーズをリードしていましたが、オークランドで行われた第5戦でピンチに陥っていました。ウォリアーズはかねてからの才能と忍耐力を証明し、緻密な戦略でオークランドを湧かせていました。

E-40はいつも自身の地元をレペゼンしています。90年代にはモブ・ミュージック・ムーヴメント(ベイエリアのプロデューサー、マイク・モズレー、スタジオ・トン、サム・ボスティックによるハイフィーの先駆けとなったBPM遅めの808ビートのスタイル) の先頭に立ち、2000年代初期には、ハイフィー・ムーヴメントを築き上げました。10年前の2006年、E-40、ミスター・ファブ(Mistah F.A.B.)、トゥー・ショート(Too $hort)と、キーク・ダ・スニーク(Keak Da Sneak)を含むラッパーたちがハイフィーをより優れたものにし、2004年に亡くなったマック・ドレ(Mac Dre)がハイフィーを完成形へと導きました。このムーヴメントはパーティ(俗にサイド・ショウと呼ばれている)、スタナ・シェイズ(サングラス)、ゴースト・ライディン・ザ・ウィップ(車を運転しながらドライバーが運転席から離れ地面を歩いたり、走行中の車の上に乗る危険なアクション)が特徴です。もちろん、ベイエリアの特定の音楽スタイルであり、アドレナリン全開のベイエリア賛歌です。

「ハイフィーになるってのは、盛り上がるとかテンションを上げるっていう意味さ。」ビーツ・バイ・ドレのCM撮影中のセットでドレイモンド・グリーン(ゴールデンステート・ウォリアーズの選手)は語ります。ゴールデンステート・ウォリアーズのパワー・フォワードは、さらに詳しく語ります。「自分のゾーンに入って生きてるってことを感じる。それがすべてのテーマさ。一言で言えば、これがベイ(エリア)なのさ、わかるだろ?正直に(生き生きと)自分自身でいること。自分自身は変えられない。自分に忠実に、本来の自分を生きるんだってこと。」1994年にキーク・ダ・スニークが始めたハイフィーは2006年に絶頂を迎えました。E-40が重要作『My Ghetto Report Card』をリリースし、キークをフィーチャーした「Tell Me When To Go」がラジオでヒットしました。E-40とキークは、ビーツ・バイ・ドレの新CMのために過去を呼び覚まし、「Tell Me When To Go」のミュージック・ビデオを再構築し、その中のワン・シーンにドレイモンド・グリーンが出演しています。

ドレイモンド・グリーンとターフ・フィエンズ・ダンサーズ
Beats By DreのCM撮影現場にて (Image via Beats By Dre)

2006年、E-40はワーナー・ブラザーズと契約。ハイフィー・サウンドのイノベイター、リック・ロック(Rick Roc)がプロデュースしたラップ・トリオ、ザ・フェデレーション(The Federation)も契約しました。これにより、ハイフィーはメインストリームのレベルまで昇りつめました。MTVでさえもベイエリアに訪れ、このサブジャンルのドキュメンタリーを撮影するほどでした。「ハイフィー・ムーヴメントはフッドで生まれたんだ。」ハイフィーが確立された時期に結成されたオークランドの卓越したダンス・クルー、ターフ・フィエンズのT-7は語ります。「町のそれぞれのブロックが、暴力を介さずに自己表現をしていたんだ。ハイフィーは、俺たちの年齢のような若いキッズが地元をレペゼンするために辿り着いたポジティブなものだね。」しかし、ハイフィーが短い運命であるかもしれないと思える現実がありました。ベイエリアのラッパーたちは人々からの注目を浴び、人気者になることへの準備が整っておらず、ビジネス感覚をもつラッパーは、ほんの一握りでした。音楽レーベルは、何人かのラッパーにのみ力をいれており、インターネットは些細なムーヴメントを宣伝するツールとしては、それほど普及していませんでした。主要なメディアが次にくるのはハイフィー!とジャッジしたとたん、ハイフィーが消え失せたのをベイエリアは目の当たりにしたのです。しかし、ハイフィーの要素は、まだ生き続けています。アップビートでバウンシーなイケてるDJ マスタード(DJ Mustard)のビートや、トラップ・ミュージックに近いEDMのサウンド、近年のラップの語彙集の中でハイフィーの要素が見受けられます。ベイエリアは、Youtubeが盛んになる前の時代に、メインストリームでの栄光を獲得するための準備が整っておらず、ラッパーの売り出し方も熟知していない法人企業によって上手く商品化されてしまったのです。ハイフィーの人気絶頂から10年後、ベイエリアの主要な人物たちが、ハイフィーがどうやってスタートしたのか、そして、どんなことが起こりえただろうかを話してくれました。

THE PLAYERS/出演プレイヤーズ

E-40 : ラッパー / 起業家
キーク・ダ・スニーク(Keak Da Sneak) : ラッパー
ミスター・ファブ(Mistah F.A.B.) : ラッパー/慈善家/起業家
トゥー・ショート(Too $hort) : ラッパー / 俳優 / Up All Night Recordsの創設者
ストレッチ(Stretch) : マック・ドレの前マネージャー
ワンダ・サルヴァット a.k.a. マック・ワンダ(Wanda Salvatto, a.k.a. Mac Wanda) : マック・ドレの母親
リック・ロック(Rick Rock): プロデューサー/Southwestern Federationレーベルの創設者
ガジ・シャミ(Ghazi Shami): EMPREディストリビューションの創設者
ドレイモンド・グリーン(Draymond Green) : バスケ選手/ゴールデンステート・ウォリアーズのパワーフォーワード
T-7 : ダンス・クルー、ターフ・フィエンズ(Turf Fienz)のメンバー
ビッグ・ヴォン(Big Von) : DJ/「106.1 KMEL」「Shade4」のラジオ・パーソナリティ
J-ディグス(J-Diggs) : ラッパー/ Thizz Entertainmentの共同経営責任者
オーランド・マギー(Orlando McGhee) : 元ワーナー・ブラザーズのA&Rディレクター
カマイヤー(Kamaiyah):ラッパー


<はじめに…>

キーク・ダ・スニーク「中1ぐらいの頃、俺はラップがやりたかったんだ。だから、大勢の友達と一緒にフリースタイルをしてラッパーになるための計画を立てた。中学の頃、俺は学校のひょうきんものだった。みんなをよく笑わせてたものだよ。「ハイフィー」という言葉は、俺がキャンディを沢山食べてたから生まれた言葉なんだ。俺はハイテンションでいろいろ考えた。子供がよくキャンディを食べ過ぎると、シュガーハイで、テンション高くなって、走り回ったりするみたいにね。」

リック・ロック
「ベイエリアにはモヴ・ミュージックというサウンドがあった。主にマイク・モズレーやスタジオ・トンみたいなヤツらの音。DJダリル(DJ Daryl)も良いサウンドを作ってたよ。だいたいが、自主制作だったね。そのアーティストの大半は、ジャイヴがE-40やスパイス・1と契約したように、続々と契約を結び始めた。モヴ・ミュージックは不吉な感じのシンセ、ハンドクラップと808が特徴だ。」

E-40「ハイフィーはエネルギーだ。ハイフィーはライフスタイルでもある。ストリートで発祥したものだ。キーク・ダ・スニーク、マック・ドレみたいな奴らが代表だね。ライフスタイルだと思う。強情っぱりで、活力がみなぎるような。「元気でハイフィーな若造だな!」とか「彼は超ハイフィーだな」って言ったりする。」

ミスター・ファブ (Image via D-Ray)

ミスター・ファブ「みんな知らないと思うんだけど、オークランドのストリートでは、ハイフィーってのは最初は良い意味じゃなかったんだよ。ハイフィーなヤツがいたとすると、「あいつ超ハイフィーすぎる。なんでアイツとつるんでるの?」って感じ。俺たちが、大勢の人々に受け入れられるようなものに変えた。だから、カッコイイものになったんだぜ。」

ガジ・シャミ
「90年代後半に、ベイエリアのラジオ局が法人化した。法人になったために、クリア・チャンネルの傘下になった。インディペンデント・アーティスト用のオンエア枠が急激に少なくなって、ラジオの内容も変わり、かかる音楽も変わった。ハイフィーは「自分たちがやりたい音楽をやって、ラジオで流れようが流れまいと関係ない!」ということだった。」

マック・ドレとキーク・ザ・スニーク。この2人の名前をユニゾンで語らなきゃダメだ。
– ミスター・ファブ

ミスター・ファブ「マック・ドレとキーク・ザ・スニーク。この2人の名前をユニゾンで語らなきゃダメだ。ドレは最高の男だった。今日のこの世界において、現在の彼らよりも昔の方が格別に偉大だったんだよ。マック・ドレはすでに人気者だった。彼が刑務所に入る前の話だけど。そして、出所したとき、彼はシズル・ワシントンになろうと考えてて、それで、さらに人気者になった。彼が亡くなったとき、彼の評判はもの凄いことになった。そして、いつのときも、そこにはキーク・ザ・スニークがいたんだ。彼は、数世代にわたるベイエリアの音楽の動向を超越している。そして、彼は今も健在だ。」

スウェイ・キャロウェイとトゥー・ショート 2006年のMTV番組『My Block: The Bay』の撮影現場にて (Image via D-Ray)


<ムーヴメント>

ストレッチ「ハイフィーに関連したものすべて、ゴースト・ライディング、サングラス、お決まりのフレーズ等は、マック・ドレの『トリルTV』(Treal TV)DVDで観ることができる。(マック・ドレは2003年に初回分をリリースした)このDVDで、サイドショウを観たことなかった人にもハイフィーが知られるようになったんだ。こんなもの、誰も見たことがなかった。トリルTVが出た後から、『オークランド・ゴーン・ワイルド』(Oakland Gone Wild)のような他のDVDがリリースされ始めたんだ。」

ビッグ・ヴォン「2001年頃から徐々に、2002年には本格的にスタートした。ちゃんとやりだしたのは、その頃だね。金曜日の夜にみんなで集まってたから、フライデー・ナイト・フルースタイル(Friday Night Freestyles)って呼んでた。ベイエリアのラッパーたちが集合してフリースタイル・バトルをやるんだ。もし勝ったら、自分の曲が流れるんだ。これを始めたリーダーがリック・ロックだった。リック・ロックはいろんなことにちょこちょこ手を出していたんだ。彼がハイフィーのサウンドを作ったんだよ。わかるだろ?」

リック・ロック「ハイフィーは、凄くエネルギッシュで、ベース・ラインと沢山のモブ要素をもっている。ベイエリアの要素をもっていなきゃダメだ。ノスタルジーなサンプリングみたいなものは全く無し。人間のチャクラに触れるようなエネルギー、人間のエネルギーの源だよ。ハイフィーは自然と最高の気分にさせてくれるんだけど、理由は分からない。ハイフィーっていうのは、自分オリジナルのシグネチャー・サウンドが出来あがると最高なんだ。みんなが「あいつらの曲だ!」ってわかるようなね。上手く説明できないけど、聴いた瞬間に分かる。イスに座っていつでも曲を作ってた。まず一定のテンポから始めて、フリーケンシー自体に雰囲気を与えるんだ。そのフリーケンシーの中に感情があって、コードの幅を上げたり下げたり動かすんだ。「なにこれ?」と言わせるようなことを俺はフリーケンシーの部分でやっている。」

ベイエリアの要素をもっていなきゃダメだ。ノスタルジーなサンプリングみたいなものは全く無し。人間のチャクラに触れるようなエネルギー、人間のエネルギーの源だよ。ハイフィーは自然と最高の気分にさせてくれるんだけど、理由は分からない。- リック・ロック

ビッグ・ヴォン「確か、最初のレコードはキークの「T-Shirt, Blue Jeans & Nike’s」だったと思う。そしてザ・チーム(The Team)が「It’s Getting Hot」っていうレコードを出したんだ。ブロードウェイというクラブで盛り上がったのを覚えている。ラジオでオンエアする前に、3つのクラブで試したんだ。オークランドにあるブロードウェイ、ミングルズ、そしてジェフリーズというクラブだったと思う。ある地域では、自分達の音楽をかける独自の流儀があるんだ。みんな他のヤツの曲を長く聴きすぎてたから、自分達の曲をかけ始めたのさ。そうやってできたんだ。」

[注釈:マック・ドレが1992年から1997年まで銀行強盗説で5年の刑期を終えてから、彼はシズ・エンターテイメント(Thizz Entertainment)を設立。現在はマック・ドレの母親、ウァンダ・サルバットa.k.a. マック・ウァンダによって運営されている。]

マック・ワンダ「マックが刑務所に入る前までは、ギャングスタ・ラップがとても多かったわね。でも、刑務で服役中、彼は自由、人生、楽しいことへ感謝の念を抱くようになったの。刑務所での5年間で貯めた全てのエネルギーと情熱で、彼は出所したその日にスタジオへ向かったわ。数週間のうちに、更にもう1枚のアルバムを完成させてしまったの。今まで以上にアップビートなラップを始めて、ダンス・ミュージックのような感じになったわ。そして、「Get Stupid」「Thizz Dance」「Feelin’ Myself」を作ったころ頃に、軌道に乗り始めたの。彼のスタイルはとてもユニークね。バーバリーにカンゴールを重ね着して、リーヴァイスのジーンズに大きなおかしなサングラスをかけてたわ。独自の服の着こなしがあって、自分の人生のことや、良い時間を過ごすことがどんな気分が話したものよ。ステージに立って、あのクレイジーなダンスをよくしてたわよ。みんなも真似して踊り始めて、それがシズル・ダンスになったの。

刑務所での5年間で貯めた全てのエネルギーと情熱で、彼は出所したその日にスタジオへ向かったわ。数週間のうちに、更にもう1枚のアルバムを完成させてしまったの。- マック・ワンダ

J-ディグスがレンジローバー車でゴースト・ライドする様子。2006年カリフォルニア州オークランドで行われた「Tell Me When To Go」のMV撮影現場にて (Image via D-Ray)

J-ディグス「俺が初めて車でゴースト・ライドをした男だ。リル・ジョンがE-40と契約を結ぶ前に、ラスベガスでE-40に会ったんだ。MGMグランド・ホテルに入って、自分の車の上に飛び乗ったのを覚えてる。自分のレンジローバー車に乗って、ゴースト・ライドしてMGMの駐車場を走り回ったんだ。リル・ジョンの表情を覚えてるぜ。ゴースト・ライドを見たときの表情をね。俺の友達、BMF(Black Mafia Family)のブルー・ダヴィンチ(Bleu Davinci)と一緒に立ってたんだけど、リル・ジョンは「オーマイガー!メーン!これは一体なんなんだ?」って感じだった。彼らはアルバムの制作中で、『My Ghetto Report Card』のアルバムに取り組んでたんだ。リル・ジョンは、E-40にこのムーヴメントの全てを取り入れるように薦めてた。そして、「Tell Me When to Go」のビデオで本物のゴースト・ライドをしてる男が、この俺だってわけ。40からやってくれって個人的に連絡がきたんだ。」

マック・ワンダ
「ゴースト・ライドってやつはね、マック・ドレが感じてたとこやキーク・ダ・スニークがしてたこと、「ただ楽しむ」ということを感じていたんだと思うわ。車のカーショーをやり初めて、車で走っている最中に、車から飛び降り始めたのよね。彼らはいまだに本当にバカだと思うわ。だって、大人の視点からいえば危険な行為だもの。だけど、それを楽しめるものにしたのね。」

[注釈:ハイフィーが定着し始めた頃、2004年にミズーリ州カンザス・シティにてマック・ドレが射殺される。殺害事件は未解決のままである。]

ストレッチ「
マック・ドレが死んだって噂が毎年あった。99年に彼に会ったときも、彼が死んだって噂があった。ハイフィー・ムーブメントは、2005年頃まで、世間でそこまで知られてなかったけど、マック・ドレを見たやつはみんな「次はアイツだ」って思ってた。これで俺の話は終わり!彼こそが、ベイエリアを代表してベイエリアの真髄を語る人物になるはずだった。彼は、他人のために何かをする代わりに、ベイエリア・ミュージックをやっていた。だから他の音楽を聴いてたやつも皆マック・ドレに傾倒し始めたんだ。」

ガジ・シャミ「マック・ドレにハマった世代があったんだ。若者、老人、その中間の人からも人気があった。全ての民族、人種、様々なバックグラウンドをもつ人にもね。彼はそういう広いファン層から支持を得ていた。リスクを承知で言うけど、俺がいままでに出会った人の中で、おそらく彼が一番カリスマ性のある人間だ。俺は素晴らしい人たちに恵まれてるね。」

キーク・ダ・スニーク (Image via D-Ray)

[注釈:マック・ドレが亡くなった後、2006年にE-40とザ・フェデレーションはワーナー・ブラザーズ・レコードと契約した。レーベルは積極的にハイフィー・ムーヴメントを売り出し、hyphy.comといったドメインを買い上げ、ベイエリアのストリートDVDをリリースしたりした。]

オーランド・マギー「Youtubeから素材を取ってきてDVDにしたんだ。そしてストリート・チームに渡してこのカルチャーを紹介した。ニューヨーク、アトランタ、ニューオーリンズといったベイエリア以外の地域でね。それで、知られるようになった。ニューヨークのストリート・カルチャーを伝えるDVDを覚えてると思うんだけど、それを真似たんだ。『Come Up』やその他のDVDがアメリカ全土にあっただろ。ちゃんとしたラベルを貼らずに自分達のDVDを制作したんだ。」

E-40「その頃、俺はリル・ジョンや彼のレーベルBMEレコード(ワーナーブラザーズ傘下)とつるんでて、クランク・ムーヴメントにも関わっていたんだ。だから、ワーナーブラザーズ傘下にいた。自分の人生の中でも最良な決断をしたと思っている。プライドなんてどうでもよかった。ワーナーブラザーズがこのムーヴメントの背景にいた。もし、それがなかったら、現在のように世間で知られることもなかったと思う。レコード・レーベルがサポートしてくれたら、次は俺の出番だ。USAトゥデイにも掲載されたんだぜ。世界規模だよ。」

2006年カリフォルニアのオークランドで行われた「Tell Me When To Go」のビデオ撮影現場にいるリル・ジョンとE-40 (Image via D-Ray)

トゥー・ショート「リル・ジョンはアトランタ出身だけど、彼がプロデュースした曲が、ベイエリアで人気があることに気づいたんだ。自分の曲を地域的なアンセムとは考えていなかったんだろう。DJ/アーティストとしてベイエリアに行って、俺が当時住んでいたアトランタに戻って来た。彼は自分が発明した訳でもないのにハイフィーみたいなサウンドを作ることを考えてたんだ。そして、リル・ジョンが「Tell Me When to Go」を作った。ハイフィーのお手本みたいな曲を作ったんだよ。」

オーランド・マギー
「E-40はベイ・エリアの最前線にいた。E-40よりも若いラッパーがベイ・エリアには沢山いたし、40はハイフィーの創設者でもなかったから、ワーナーブラザーズは人々から少し反発を受けるのではと懸念していたことを言っておくよ。彼はベイエリアの大物で、ハイフィーのことを世界に紹介したけれども、多くの人は「オリジネーターでもないのにね」みたいな感じだった。こういったことも起こるんだよ。マーケティング計画が凄く素晴らしかったから、すぐに火がついてブレイクした。『Hype on Hyphy』というDVDを作ったのを覚えてるよ。凄かったんだよ。」

キーク・ダ・スニーク「俺たちには道しるべが必要だったんだ。「これは俺たちのものだ。これが俺たちのやってることだ。」と主張する必要があった。サウスにクランクがあるように、俺たちにもアイデンティティが必要だったんだ。だけど、それは常に存在していたんだ。おそらく、何て呼べばいいのか分からなかっただけだ。」

[注釈: 諸説あるが、ハイフィー・ムーヴメントで一番有名な曲は、2006年の2月1日にリリースされたE-40の「Tell Me When to Go」で、その年のビルボード・ホット・ラップ・ソングのチャートで8位を記録している。]

E-40「Tell Me When To Go」で絶対勝てると分かっていた。ワーナー・ブラザーズに行って、DVDに収録されている映像を見せたんだ。ベイ・エリアで俺たちがやってることが分かるようにね。ワーナー・ブラザーズがバックについて、俺たちが全国レベルまでに押し上げた。超売りまくったよ。プラチナムだったはずのゴールド・レコードだった。」

ミスター・ファブ「この話をするときには、横暴になりすぎないようにしているんだけど、俺はハイフィー・ムーヴメントにちょこっとだけ携わったレベルの人間じゃない。俺はハイフィー・ムーヴメントの渦中にいたんだ。わかるだろ?3〜4人ぐらい注目を集める有名なやつがいると思うんだけど、その中のひとりが俺だった。俺はハイフィー・ムーブメントが終わりを告げる直前まで、ハイフィー・ムーヴメントのラッパーとして人々に知られることは無かった。ワーナー・ブラザーズがE-40と契約した時、彼らは積極的にE-40を売り込むためにhyphy.comのドメインを買った。ワーナー・ブラザーズは、売り込むものが何であれ、それをあたかも自分たちが作ったものかのように売り込むんだ。これは、E-40のミスという訳ではないけど、多くの人々がワーナー・ブラザーズのマーケティング策略にまんまと騙された。ニュースの見出しやタブロイド、ヒップホップのメディアがそれを後押しした。だけど、ファンが行きたいと思うような完璧なツアーを組む事ができなかったから、そこまで流行らすことができなかった。なんで、ワーナー・ブラザーズが自分らと無関係の6人の出演者のツアー費用を払わなきゃならないんだ?E-40とザ・フェデレーションだけのツアーは組めたかもしれないけど、ハイフィー・ムーヴメントとしては物足りないし納得いかないだろ。現在は、E-40が1人で活動していて、誰の助けも必要としていないし、今後20~30年は長く聴かれそうなヒット曲も持ってる。だけど、ハイフィーの真髄を見せるには、他のサポートアクトも必要なんだ。さっきも言ったけど、ワーナー・ブラザーズの利益にならないのに、トゥー・ショート、キーク・ダ・スニーク、ミスター・ファブそして ザ・チームが出演するツアー費用は持たないだろ?」

E-A-スキとリック・ロック。2006年カリフォルニアのオークランドで行われた「Tell Me When To Go」のビデオ撮影現場にて (Image via D-Ray)

<転落>

ビッグ・ヴォン「お金が絡み出してから、ハイフィーは消え失せてしまった。人気が出る前でさえ、みんなが自分自身をスターだと感じてたいたけど、みんなが一緒に結束する事は無かった。俺にとって重要だったのは、ロックバンドみたいにみんなが一致団結することだった。ロック・バンドってのは、ヴァンを手に入れて16から20カ所ぐらい、小さなバーから大きなアリーナまでツアーを回るだろ。俺たちはハイフィー・ツアーもできなかったんだぜ。ときどき、サウンドがベイエリア特有すぎるとか言われたりするけど、地域特有のものじゃない。他のどの地域でも通用できた。「Tell Me When to Go」がヒットしたし、トゥー・ショートの「Blow the Whistle」もウケた。素晴らしいことだよ。ハイフィーのムーヴメント下ではヒットする可能性を秘めた曲が沢山あったんだ。」

オーランド・マギー「数百万ドルのマーケティング予算が無かったら、大規模で人々に受け入れられることは無かったかも分からないな。ベイエリアには全国レベルでブレイクしていないにもかかわらず、特定の地域で4万〜5万枚売ってしまうインディペンデント・アーティストがいるんだ。ベイエリアには混合市場が存在していて、素晴らしい音楽を作ってボロ儲けしているアーティストもいるんだけど、そういうアーティストはその他の地域との交流を断絶してるんだ。E-40は賢いビジネスマンだよ。E-40に関連したワーナー・ブラザーズのツアーも無かったんだ。“360”音楽契約とか以前の話だよ。E-40は自分でツアーに出た。当時を振り返ってみると、E-40とザ・フェデレーションのツアーでさえもやらなかったんだよね。これは、ベイエリアのアーティストが実現すべきことだった。シーンの内情をよく知らないから、俺が上手く語ることはできないけど。俺が思うに、E-40は、多くの人とトラブルがあった。これが、上手くいかなかった理由だと思う。」

キーク・ダ・スニーク
「ハイフィーには看板役者が必要だった。リーダーが必要だった。あの頃は、他の奴らが作りあげたハイフィーの定義が気に入らなかった。だから前に出て「これがベイエリアで俺たちがやり始めたのものだ。これが俺たちのスタイル。これが俺たちのやり方さ。」なんて言うこともしなかった。ハイフィーをレペゼンして、これは俺たちのものだと前に出て言おうとするヤツは沢山いた。しかし、そういう奴らがハイフィーを間違った形でレペゼンしてて。だから俺はひいたんだ。みんなには、ただ彼らを観て、過去や未来を見てもらいたかった。ハイフィーが大袈裟に表現されるようになって、多くの人々がバナナの皮で滑るみたいに失敗したよね。」

スウェイ・キャロウェイとキーク・ダ・スニーク 2006年MTVの番組『My Block: The Bay』の撮影時 (Image via D-Ray)


J-ディグス
「俺たちは受け入れて、少しの間その波にのっかってたんだけど、辞めた。それが現実だよ。ムーヴメントっていうのは、やってきては去っていくんだ。俺たちのやってることに便乗してくるやつがいなきゃ続かないんだ。」

E-40「みんなハイフィーをやろうとしてたけど、上手くできなかった。彼らは成功しなかった、わかるだろ?同じビートをリサイクルしまくって、クリエイティヴな姿勢がなかった。彼らの曲が望むようにヒットしなかった原因はそれだよ。あとは、年上のラッパーから嫌われていたり、意地になりすぎて協調性ってのを知らないヤツ。個人的に、俺はこういうこと全部上手くできるんだ。自分の脳ミソを使って、クリエイティブなアイデアを考えるだけさ。だらだらしてはいられないぜ。そういうことなんだよ。人々もムーヴメントも飽和状態になり始めた。ここでは、お互いが足を引っ張り合って上手く抜け出せない状況があったんだ。でも、俺は違うぜ。あと、その他多くの単独でやってたやつらもだ。俺たちは一緒にやってたけど、誰もが俺を嫌いになって、俺を悩まそうとして、売名行為を利用して言うんだ。「あら、彼はコレからアレをとって、アレはコレからとったんだ」とか言ってる。誰もがでっち上げだと主張したいんだよ。」

ガジ・シャミ
「”バケツの中のカニ“という表現が当てはまっていると思う。インディペンデント市場でやってると、なにもかも自分のためにやることに慣れてくるから、自分自身が最悪の敵になってしまう。自分1人で何でもできるという思い込みが膨らんで「地元のラジオ局で俺の曲が流れてさ、サンホセやサクラメントまでライブのブッキングオファーがあってさ」とか自慢しだしたり。自分には誰も必要ないと感じ始めて、そして、誰かが必要になったときには、もうそこには誰もいないのさ。」

リック・ロック「みんな一致団結していなかった。アトランタにはクランク・ムーヴメントがあったけど、それとは真逆の状況だった。本当に正反対だったんだ。これが上手くいかなかった原因さ。俺たちはお互いに尊敬し合うこともできたけど、それをしなかった。40は40で、キーク・はキーク、ザ・フェデレーションはザ・フェデレーションだ。みんなで結束できたら、ビジネスはもうちょっと良くなってたかもしれない。」

E-40とターフ・フィエンズ・ダンサーズ 「Tell Me When To Go」のBeats By DreのCM撮影現場にて (Image via Beats By Dre)

トゥー・ショート「ハイフィー・ムーヴメントがもはやハイフィー・ムーヴメントと呼ばれなくなったとき、LAのプロデューサー達がこのハイフィーをやりだした。主に、DJマスタード、クリス・ブラウンや他のアーティストだ。ベイエリアが鳴らすようなサウンドのバイブスがあったけど、それを認めることも無かった。今直ぐ認めるべきだと思うんだけどね。彼らはベイエリア音楽の最良で商業的な部分を起用した感じだな。アイアムスー!、セイジ・ザ・ジェミナイといった北カリフォルニアや南カリフォルニアのアーティストがやり始めた。そのまんまの雰囲気で全米にまで広がった。YGはとてもベイエリアな感じだよね。」


E-40
「ハイフィーは偉業を残したと思う。ハイフィーのベースラインがラチェット・ミュージックだとかターン・アップ・ミュージックと呼ばれるものに変貌した。それにしても曲が沢山あるね。イギー・アゼリア(Iggy Azalea)の「Fancy」、ジデーナ(Jidenna)の「Classic Man」もそうだし。こういう曲は好きだよ。今ではマスタード・サウンドって呼ばれてるな。ビッグ・ショーン(Big Sean)の「I Don’t F*ck With You」みたいなやつね。マスタードとマイク・ウィル・メイド・イットがやってるよな。彼らは自分たちのすべきことをやってるだけだ。「彼らの曲を忘れてた。俺、彼らの曲でやってるんだった」って感じ。彼らは全く異なったやり方でハイフィーを蘇らせようとしているんだ。」

キーク・ダ・スニーク「正しいやり方でレペゼンするチャンスはあった。いま流行ってるほとんどの曲は、俺たちがやり始めたサウンドだ。しかし、彼らが俺たちに喧嘩を売ってるとは言えない。俺は、オマージュだと思ってる。カリフォルニアのものでもあるからね。ベイエリアの俺たちはいつも何かしら注目を集めているし、俺たちは聴かれるべきだと思う。観られる必要があると思う。だから、有り難く思ってる。わかるだろ?侮辱されたと感じたことは無い。」

カマイヤー「突破口を開いている人はいると思うわ。ベイエリアで、ハイフィーは長いこと、きちんと筋が通った形で存在していなかったわ。今はカマイヤーみたいなアーティストがいるでしょ。(笑)オークランドのリアルな真髄を表現できるようなアーティストがね。「オーマイガー!何コレ?」って驚くような。新鮮で良い刺激を与えていると思うし、オークランドで何が起こってるのか知りたいと人々に思わせていると思うの。これから5年〜10年は、ベイエリアから沢山のアーティストが出てくると思うわ。」

マック・ワンダ「数年前、ドレイクが連絡してきて、彼が15歳のときにマック・ドレが彼にどれだけ影響を与えたか、どれだけ重要な存在だったかを話してくれたことがあるわ。そして私は言ったの。知ってる?マック・ドレは多くの人々に影響を与えたの。もっと世間から注目されて評価されてもいいはずだと話したわ。いろんなことを知り出して、私は母親の立場でストーリーを語っているの。今では『Legend of the Bay』というDVDを完成させるぐらい強い人間になれた。これは私の初めてのプロジェクトのひとつよ。昨年は、シズ84(Thizz 84)というマック・ドレにインスパイアされた服のブランドも始めたわ。去年はアート・イベントも開催して、今年もオークランドのダウンタウンで2回目を開催するつもり。1000人以上の人々が来てくれたの。『Treal TV 3』も制作する予定よ。皆がやって欲しいというから、いろいろやるつもりよ。」

アンドレ・ルイス・ヒックス a.k.a マック・ドレと彼の母親、ワンダ・サルヴァット (Image courtesy of Wanda Salvatto.)

J−ディグス「ビッグ・ショーンからニッキー・ミナージュまで使ってるよね。「getting stupid」「going dumb」とか「feeling myself」というフレーズをよく聴くけど、こういうフレーズってマック・ドレがよく言ってた定番のフレーズなんだよね」

ビッグ・ヴォン「いつでも耳にすることができるよ。いつでも良いグルーヴのアップテンポな曲があると、それはベイエリアのものだね。だって、L.Aにはギャングスタ・ファンクがあって、アトランタはブーティ・シェイクやインヤン・サウンドがある。そして、ニューヨークには常にニューヨーク・サウンドがある。俺たちのは踊れるサウンドだ。OG(先輩)たちの曲を聴くと、どの地域の曲かすぐに分かったものだよ。いまはもう判断できない。どこにでも行けて、どのビートでどんなサウンドでやってもいい感じがある。ある日はアトランタ、次の日はシカゴ、その翌日はベイエリアみたいなこともできる。別に悪いことじゃないけど、誰も自分の地域をレペゼンしなくなったね。」

リック・ロック「俺にとっては最愛の時間だったよ。自分の仲間がアーティスト契約するのをサポートしたり、彼ら自身や彼らの母親、いろんな事情を手助けできたから。そういうことができる人間でいられるのは素晴らしいことだと思う。だけど、業界の中では言い争いや、人を裏切ったりすることばかりだ。友達だと思ってた人たちとね。それで、いろんなことが起こって離れて行く。無意味だった。俺たちは、お互いそんなことをし合って、いまでは、皆どこかへ消えてしまったね。あの頃のことが、良い思い出だとか思いを馳せて見ている訳ではないよ。自分のできる限りの愛で音楽に打ち込めたこと、他人を手助けしたこと、音楽を気に入って楽しい時間を過ごしている人達がいること。それについては気分が良いものだよ。」

ミスター・ファブ「音楽は聴いてるし、曲も聴いてる。だけど、音楽は進化しているし、巡り巡っている。だから、いつもいろんな音楽を聴いても、似たような部分を発見してしまう。ヒップホップは大きな円だよ。そして、残念なことに、いまこの瞬間に、その進化には気付けない。サンプリングされた曲、抜き出した声やサウンドで、インフルエンサーが注目集めて成功する。それがヒップホップであり、それが人生だ。これからもそれは続くと思うよ。一度起こったことは、俺を信じてくれ、また起こるから。他の誰かがやってるかもしれないし、他の地域がやってるかもしれない。例えば、1台の車を走らせるために費やした部品と同じものが別の車を走らす。そして、それに乗らないと行けない。車輪が外れるまで乗らなきゃならない。事故を起こして車を燃やすかしてから、やっとその車から降りる。そして、前に進むために、他の交通手段を見つける。でも、肝心なこと、義務、そして目的は、前に進むことだろ。そして頑張りつづけることだ。」

<終>

いかがでしたでしょうか!?キーク・ダ・スニーク、リック・ロック、ミスター・ファブなどなど、人として熱い人たちばかりでございました。マック・ドレとキーク・ザ・スニーク!この2人の名前をユニゾンで語らなきゃダメだ!

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