WEST COAST HIP HOP HISTORY年表(1980−1989)[改訂版]

WEST COAST HIP HOP HISTORY年表(1980−1989)[改訂版]

2月はブラック・ヒストリー・マンス!ということで、2009年にYAPPARI HIPHOPに掲載した「WEST COAST HIP HOP HISTORY年表(1980−1989)」の改訂版をアップ!映画『Straight Outta Compton』公開や、筆者の追加リサーチにより、10年前より多くの情報が明らかになったため更新しました。WEST COAST HIP HOP HISTORY年表(1959−1979)[改訂版]はこちら


1980年:ポッパーズ・アンセム発売
ザップ(Zapp)が、西海岸のポッパーズとギャングスタのファンク・アンセムとなる「More Bounce To The Ounce」をリリース。


1980年: ザ・レッキン・クルー 結成
アロンゾ”ロンゾ”ウィリアムスのディスコ・コンストラクションがザ・レッキン・クルー(The Wreckin’ Cru)に名前を変更。


1980年11月4日:レーガン大統領就任
ロナルド・ウィルソン・レーガン(Ronald Wilson Reagan)が大統領に選出。レーガノミクスという、レーガン大統領の一連の経済政策がロサンゼルスのフッドでの犯罪、クラック・コカイン流入やギャングの増加を促した。このレーガノミクスは、それ以降のヒップホップ文化や、当時10代だったフッドの子供たちに強い影響を与えた。


1981年8月1日:MTVがミュージックビデオを放映開始
ケーブルテレビ・チャンネルMTVがバグルス(The Buggles)「ラジオ・スターの悲劇」(Video Killed the Radio Star)のミュージックビデオを放映する。これはMTVが初めて放映したミュージックビデオ。MTVは、黒人アーティストのミュージックビデオは一切流さない方針であることを断言した。


1981年6月:リック・ロス活動をはじめる
“フリーウェイ”リック・ロスが、親友のオリー”ビッグ・ロック”ニューウェル(Ollie ”Big Loc” Newell)と共に、教師から入手した少量の粉末コカインをロサンゼルスのサウス・セントラルで売り始める。


1981年:「Gigolo Rapp」発売
西海岸初のラップ・レコード、ディスコ・ダディ&キャンプテン・ラップ(Disco Daddy & Captain Rapp)の「Gigolo Rapp」がリリース。


1982年: クラックブーム
LAのサウス・セントラルでクラック・コカインが大流行!大半のクラックは、オスカー・ダニーロ・ブランドン(Blandon Danilo Blandon)とノーウィン・メネセス(Norwin Meneses)というニカラグアの反政府ゲリラ・自由戦士から、“フリーウェイ”リック・ロスを通じて、クリップスやブラッズなどのストリートギャングへ送られていた。オスカー・ダニーロ・ブランドンとノーウィン・メネセスは、このドラッグ取引で得た金でアメリカCIAから武器を買い、当時内戦が続いていたニカラグアへ輸送した。


1982年: 「Planet Rock」 発売
アフリカ・バンバータ&ザ・ソウルソニック・フォース(Afrika Bambaataa & The Soul Sonic Force)がトミー・ボーイ・レコーズから「Planet Rock」をリリース。クラフト・ワークの「Trans-Europe Express」をサンプリングしたこの曲は、全米だけで62万枚の売り上げを記録した初のテクノ・ファンク曲で、西海岸エレクトロ・ファンクやテクノ・ファンクのブームに大きな影響を与えた。


1982年:キッド・フロスト活動開始
キッド・フロスト(Kid Frost/Arturo Molina, Jr.)がイーストLAでラップとブレイク・ダンスを始める。彼はアンクル・ジャムズ・アーミー(Uncle Jamm’s Army)が開催していたパーティで、時々バトルしていたアイス・Tへのオマージュとして、自分の名前をキッド・フロストにした。彼は西海岸ヒップホップ・シーンで早くからリスペクトを得ていた人物の1人である。


1982年:「Atomic Dog」 発売
ジョージ・クリントン(George Clinton)が伝説的なファンク・トラック「Atomic Dog」をリリース。彼の初期の作品と同様に、その後のギャングスタ・ラップに多大な影響を与える。


1982年:「Rappers Rapp Theme」 発売
ラッパーズ・ラップ・グループ(Rappers Rapp Group)がラッパーズ・ラップ・ディスコ・レーベル(Rappers Rapp Disco Co)から「Rappers Rapp Theme」をリリース。この曲では、マック-ア-モー(Mack-A-Moe)、リー”DJフラッシュ”ジョンソン(Lee “DJ Flash” Johnson)、MCフロスティ(MC Fosty)、キングMC(King MC)、ディスコ・カール(Disco Carl)、ミスター・アイス(Mr. Ice)がフィーチャーされ、パーティ、女性、ハスリングについてラップした。


1982年:「Mickey」 発売
トニー・バジル(前キャンベルロック・ダンサーズ/ザ・ロッカーズのメンバー)が、ポップ・ヒット「Mickey」をリリース。ミュージックビデオには、カーソン高校のチアリーダーが出演し、この曲のリミックスが西海岸パーティシーンで流行した。


1983年:ドレWRCに加入
ドクター・ドレがワールド・クラス・レッキンクルーに加入する。イブズ・アフター・ダークでアロンゾ・”ロンゾ”・ウィリアムスのオーディションを受けたときは、「Planet Rock」のインスト上で「Please Mr. Postman」をミックスした。


1983年:「The Coldest Rap」 発売
アイス-Tがファースト・シングル「The Coldest Rap」と「Body Rock/Killers」をリリース。ピンプっぽいスタイルからBボーイへ路線編変更。「The Coldest Rap」は、テリー・ルイス(Terry Lewis)とジミー・ジャム(Jimmy Jam)がプロデュースした。


1983年:「Magic Mike Theme」発売
ラジオ局KJLHのDJマジック・マイク(DJ Magic Mike)が、ラッパーズ・ラップ・ディスコ・レーベルから「Magic Mike Theme」をリリース。


1983年:ムーン・ウォークがテレビで放映!
マイケル・ジャクソン(Michael Jackson)が、ロサンゼルスで開催されたテレビ特番『Motown 25: Yesterday, Today, Forever』で、初めてムーン・ウォークを披露する。世界は彼がムーン・ウォークを考案したと思い、「マイケル・ジャクソン・ムーン・ウォーク」として知られるようになる。実際には、マイケル・ジャクソンがロサンゼルスのポッパーズから学んだもので、ムーン・ウォークの動きは「バックスライド」と呼ばれ、1930年代頃からあるダンスの動きである。


1983年3月10日:MTVで黒人アーティストのMVが初めてOA!
MTVが初めて黒人アーティストによるミュージックビデオ、マイケル・ジャクソンの「Billie Jean」をオンエアする。最初、このビデオは却下されたが、CBSレコードの社長、ウォルター・イェットニーコフ(Walter Yetnikof)が「Billie Jean」を流さなければ、他のCBSレコードのアーティストのビデオも回収すると脅したことで、プレイリストに追加され、画期的な変化となった。


1983年:トゥパック劇団に入団
トゥパックの母親、アフェニ・シャクールが12歳のトゥパックをハーレムのシアター・グループ「127thストリート・アンサンブル」に入れる。トゥパックが初めて演じた作品は、『ア・レーズン・イン・ザ・サン』という舞台劇のトラヴィス役である。


1983年:『Breakin’ ‘N’ Enterin’』 放映
ロサンゼルスで撮影されたポッピン、ロッキンといったダンスのドキュメンタリー映像『Breakin’ ‘N’ Enterin’』がケーブル・テレビで放映される。シャバドゥー、ブーガルー・シュリンプ、ポッピンタコ(Pop ‘n’ Taco)、ブルー・シティ・ストラッターズ(Blue City Strutters) =ブーヤー・トライブ(Boo-Yaa T.R.I.B.E.)、アイス-T、エジプシャン・ラバー(Egyptian Lover)などが出演した。


1983年:ウルトラ・ウェーブ・プロダクション 結成
ザ・ミュージック・マスターズ(The Music Masters)とナイツ・オブ・ザ・ターンテーブル(Knights of The Turntables)という2つのDJクルーが合併し、ウルトラ・ウェーブ・プロダクション(Ultra Wave Productions)が結成される。ザ・ミュージック・マスターズには、グレゴリー”MCG“エヴェレット(Gregory “MCG” Everett)、ロデリック”ロディロッド“フィールズ(Roderic “Roddy Rod” Fields)、リチャード”リック・ロック“カルヴィン・アーロン・Ⅲ(Richard “Rick Rock” Calvin Aaron III)が、ナイツ・オブ・ザ・ターンテーブルには、ダリル”ザ・ウィズ“アダムス(Daryl “The Wiz” Adams)、ダニエル”ザ・ワーロック“アダムス(Darnel “The Warlock” Adams)、ロッド” ブルヴァード・ロッド“アダムス(Rod “Blvd Rod” Adams)というメンバーがいた。


1983年: 映画『スカーフェイス』 公開
映画『スカーフェイス』が公開。アメリカ各地の若手ドラッグ・ディーラー、サグやギャング・メンバー、ラッパーに影響を与え、みんなトニー・モンタナに憧れた。


1984年:トゥー・ショート が UTFO の前座に抜擢
オークランドをツアー中だったUTFOがオークランドの地元MC,トゥー・ショート(Too Short)に前座を依頼する。


1984年: ラジオ局KDAYのプレイリストにヒップホップが追加!
ラジオDJ、グレッグ・マック(Greg Mack)がロサンゼルスのラジオ局、KDAYの音楽ディレクターに就任し、ヒップホップをプレイリストに追加した。ドクター・ドレとDJイェラがこのラジオ局で初めてミックスをしたDJとなる。


1984年: ワールド・クラス・レッキン・クルー初シングル発売
ザ・ワールド・クラス・レッキン・クルーがファースト・レコード「Slice/Kru Groove」を制作し、ドクター・ドレ、DJイェラがスクラッチを担当する。このレコードはトーランスにあるオーディオ・アチーブメンツ(Audio Achievements)にて、100ドルでレコーディングされた。


1984年:MJがグラミー賞でムーン・ウォークを披露
マイケル・ジャクソンがグラミー賞授賞式で「Billie Jean」をパフォーム中、2度目のムーン・ウォークを披露する。世界中が彼をブレイカーだと思い、「マイケル・ジャクソン・ムーンウォーク」として、さらに知られるようになる。


1984年:アイス・キューブがリリックを書き始める
アイス・キューブが高校でリリックを書き始める。


1984年:アンクル・ジャムズ・アーミー 「Dial A Freak/Yes,Yes,Yes」 発売
西海岸ヒップホップのパイオニア、ロジャー・クレイトン(Roger Clayton)率いるダンス・プロモーション・チーム、アンクル・ジャムズ・アーミー(Uncle Jamm’s Army)が、「Dial A Freak/Yes,Yes,Yes」を自身のレーベル、フリーク・ビート・レコーズ(Freak Beat Records)からリリース。アンクル・ジャムズ・アーミーは、ザ・エジプシャン・ラバー(The Egyptian Lover)、ボブ・キャット(Bob Cat)、バトル・キャット(Battle Cat)、アイス-T、クリス”ザ・グローブ”テイラー(Chris “The Glove” Taylor)といったアーティストの音楽キャリアを後押しした。


1984年:オリンピック閉会式でストリート・ダンス
ロサンゼルスオリンピックの閉会式がロサンゼルス・コロシアムで行われる。ライオネル・リッチー(Lionel Richie)が「All Night Long」をパフォーマンス中、数十のダンスクルーから集まった200人のダンサーが観衆の前で、ポッピン、ブレイク・ダンス、ヘッド・スピンなどを披露する。


1984年:「Surgery」 発売
ドクター・ドレがプロデュース/作曲したザ・ワールド・クラス・レッキン・クルーの「Surgery」がリリース。5万枚の売り上げを記録した。


1984年:エジプシャン・ラパー 『On The Nile』 発売
エジプシャン・ラパー(The Egyptian Lover/Greg Broussard)がアルバム『On The Nile』をリリース。これが西海岸のエレクトロ・ホップ、後のテクノ・ポップ・ムーブメントの幕開けとなる。エジプシャン・ラパーは、アンクル・ジャムズ・アーミーのフリーク・ビート・レコードを去り、自身のレーベル、エジプシャン・エンパイア(Egyptian Empire)を設立した。


1985年:「P.S.K. What Does It Mean?」 発売
スクーリー・D(Schoolly D) がフィラデルフィアで「P.S.K. What Does It Mean?」をインディペンデントでリリースする。「P.S.K」の頭文字は、「パーク・サイド・キラーズ(Park Side Killers)」というスクーリー・Dが所属していたギャングの名前である。ギャングスタ・ラップはロサンゼルスではなくフィラデルフィアで生まれた。


1985年6月: クラック・コカイン問題報道
大学生バスケットボール選手、レオナード・ケヴィン・ビアス(Leonard Kevin Bias)、プロ・フットボール選手、ドナルド・ラヴァート・ロジャーズ(Donald Lavert Rogers)が、薬物の過剰摂取で死亡し、主要メディアで報道されたことクラック・コカイン問題が世間の明るみに出る。


1985年 :
交通違反で逮捕されたドクター・ドレ、それまではアロンゾ・”ロンゾ”・ウィリアムスが保釈金を払って助けていたが、ずっと同じことが続いたため、断った。そこで、ドレは イージー・E (Eazy-E)に連絡し、保釈金が払われ保釈される。ドレを助けた代わりに、イージー・Eがレコード・レーベルを設立した時に、イージーのトラックをドレがプロデュースするという約束を交わす。


1985年:「Terminator」発売
キッド・フロストが‎ザ・レッキン・クルーのDJイェラがプロデュースした「Terminator/ Rough Cut」をリリース。


1985年:「Whatcha Gonna Do?」発売
クーリオが「Whatcha Gonna Do?」をリリース。


1985年:2 Live Crew結成
フレッシュ・キッド・アイス(Fresh Kid Ice/ Christopher Wong Won)、DJ・ミスター・ミックス(DJ Mr. Mixx /David Hobbs)とアメイジング・ヴィー(Amazing Vee/Yuri Vielot)の3人が、ロサンゼルスでツー・ライヴ・クルー(2 Live Crew)を結成する。ファースト・シングル「Revelation」がマイアミでヒットしたことで、フレッシュ・キッド・アイスとDJ・ミスター・ミックスはマイアミに移住する。セカンド・シングル「What I Like」リリースのタイミングで、マイアミ出身のブラザー・マーキス(Brother Marquis)がグループに加入する。


1985年:「Rockberry Jam With Funky Fresh」 発売!
L.A.ドリーム・チーム(The L.A. Dream Team)が「Rockberry Jam With Funky Fresh」をリリース。ロサンゼルスのアンダーグラウンド・ヒットとなる。


1985年:『World Class』 発売!
ワールド・クラス・レッキン・クルーがシングル「Juice」を収録したアルバム『World Class』をリリース。リック・ジェームス(Rick James)の前座として一ツアーを回り、ツアー中にCBSレコードから契約オファーを受け、アロンゾ・”ロンゾ”・ウィリアムスは契約の前金として100,000ドルを受け取る。


1985年:「Computer Power」 発売
ジェイミー・ジュピター(Jamie Jupitor)がエジプシャン・ラバーのレーベル、エジプシャン・エンパイアからシングル「Computer Power」をリリースする。


1986年9月:トゥパック、ボルチモア芸術学校に入学
トゥパックがボルチモア芸術学校に入学し、演技や演劇、バレエなどを学ぶ。


1986年: ルーサー・キャンベル、2 Live Crewに加入
ルーサー”ルーク・スカイウォーカー”キャンベル(Luther “Luke Skywalker” Campbell)がツー・ライヴ・クルーと契約を結び、自身のレーベルに迎える。初めはグループのマネージャーをしていたが、グループに加入。成人指定の「Throw The ‘D」と「We Want Some Pussy」を収録したアルバム『The 2 Live Crew Is What We Are』をリリース。


1986年:クーリオ人生の再出発
クーリオがクラック・コカイン中毒のためリハビリセンターに入り、カリフォルニア北部で消防士になることで人生を立て直す。


1986年:DVX結成
サイプレス・ヒルの前身グループ、DVXが結成される。キューバ生まれの兄弟、セン・ドッグ(Sen Dog/Senen Reyes)とメロウ・マン・エース(Mellow Man Ace/ Ulpiano Sergio Reyes)が、ロサンゼルス在住のDJマグス(DJ Muggs/Lawrence Muggerud)、B-リアル(B-real/Louis Mario Freese)と手を組み、ラテン・ヒップホップの先駆者となる。


1986年: エジプシャン・ラバー「One Track Mind」 発売!
エジプシャン・ラバー(The Egyptian Lover)が「One Track Mind」をリリース。プリンス(Prince)、ユーロ・シンセ・ポップと北アフリカの音楽を融合したような作品で、ギャングスタ・ラップが誕生する前は、このような作品が西海岸ラップとして認識されていた。


1986年:「Boyz n the Hood」レコーディング
イージー・Eがルースレス・レコード(Ruthless Records)の第1弾アーティストとして契約しようとしていたニューヨークのグループ、HBOがアイス・キューブの書いたリリックでレコーディングする予定でスタジオに現れたが、ウェストコースト色が強過ぎると帰ってしまった。そこで、ドクター・ドレがイージー・Eをなんとか説得し、レコーディング。1年後にこの曲がリリースされると「Boyz n the Hood」は、フッドの大ヒットとなり、世界的名曲となった。


1986年:「The Dream Team Is In The House!」リリース
LA・ドリーム・チームが「Yo baby, yo baby, yo」というフレーズでお馴染みの大ヒット曲「The Dream Team Is In The House!」をリリース。このデュオは、ウルトラ・ウェーブ・プロモーションが開催していたパーティで発掘され、「Yo baby, yo baby, yo」というフレーズは、パーティの定番フレーズとなった。彼らはMCAと契約し、『Kings Of West Coast』をリリースした。


1986年:「6 ‘n The Morning」 発売!
アイス-Tが「6 ‘n The Morning」をテクノ・ホップ・レコーズからリリース。これが西海岸で2枚目のラップ・レコードを考えられている。


1987年:C.I.A.(Cru’ in Action!) 結成
アイス・キューブがC.I.A.(Cru’ in Action!) というラップ・グループを結成する。アイス・キューブをパーティに出演させるなど、後に彼のメンター的存在となるドクター・ドレと出会い、ワールド・クラス・レッキン・クルー主催のパーティでパフォーマンスをするようになり、ドクター・ドレプロデュースの「My Posse」をアロンゾ”ロンゾ”ウィリアムスのレーベル、クルー・カット (Kru-Cut) からリリースする。


1987年1月:フリーウェイ・リック・ロス特別部隊 発足
ロサンゼルス市警察と、郡保安官がフリーウェイ・リック・ロス特別部隊を結成し、どんな手段をとってでも“フリーウェイ”リック・ロスを捕まえようとする。


1987年: 「Payback’s a Mutha」 発売!
コンプトンのラップ先駆者、キング・ティー(King Tee)が、DJプー(DJ Pooh)とDJアンノウン(DJ Unknown)プロデュースの「Payback’s a Mutha」をテクノ・ホップ・レコーズからリリース。また「Bass」を、ラジオ局1580KDAYのラジオ・パーソナリティ、グレッグ・マックのレーベル、マック・ダディ・レコーズ(Mack Daddy Records)からリリース。キング・ティーは、西海岸ギャングスタ・ラップの風情とフィーリングを形作った。


1987年: N.W.A 結成
イージー・EがN.W.A(Niggaz Wit Attitudes)を結成する。ドクター・ドレ、イェラがプロダクションを担当し、アイス・キューブがリリックを書き、アラビアン・プリンス(Arabian Prince)、アイス・キューブとイージーがラップした。シングル「Boyz-n-the Hood」は、地元のスワップミート(フリーマーケット)で販売された。


1987年:アイス・キューブ工業大学入学
アイス・キューブがロサンゼルスを去り、アリゾナのフェニックス工業大学(Phoenix Institute of Technology)で建築製図を学ぶ。


1987年3月3日:イージー・E がジェリー・ヘラー に出会う
イージー・Eがジェリー・ヘラーと出会う。アロンゾ・”ロンゾ”・ウィリアムスは紹介料として750ドルを請求した。ヘラーは彼の作品デモを聴き、ルースレス・レコーズ(Ruthless Records)の共同設立者となる。


1987年:『Born To Mack』 発売
トゥー・ショート(Too Short)は、地元のインディペンデント・レーベル、75 Girls Records用に3枚のアルバムをレコーディング後、アルバム『Born To Mack』を自身のレーベル、デンジャラス・ミュージック(Dangerous Music)からリリースし、自主販売する。これが、のちにベイエリアの「自分でやる(D.I.Y)」というインディ・ラップ・ムーヴメントに影響をもたらし、それが数年後に開花することとなる。


1987年: N.W.Aの評判 が高まる
「Boyz-n-the Hood」のアンダーグラウンドでの成功を目撃したマコーラ・レコーズのドン・マクミランは、「Boyz-n-the Hood」とその他、様々なアーティストがレコーディングしたデモ曲やラフな録音作品をコンパイルしたアルバムを、ルースレスのロゴをつけ、N.W.A and the Posse名義でリリースした。そのアルバムに収録された楽曲中、N.W.Aの作品は3曲のみだった。アルバム自体はあまり売れなかったが、N.W.Aの評判が確立され始める。


1987年:シュグ・ナイト逮捕
シュグ・ナイト(Suge Knight)が自動車窃盗、武器の不法所持と殺人未遂の罪で告発される。彼は有罪を認め、2年間保護観察となる。


1987年:2 Live Crewのアルバム販売トラブル続出
14歳の女の子に ツー・ライヴ・クルーのアルバム『The 2 Live Crew Is What We Are』を売ったとして、重罪となったフロリダのレコードショップの店員が無罪となる。


1987年:「Rhyme Pays」 発売!
アイス-Tが「Rhyme Pays」をサイアー・レコード/ワーナー・ブラザーズ・レコードからリリース。高級車、綺麗な女性、ヤシの木といった西海岸のプレイヤー・シーンを全世界に紹介する。


1987年:N.W.A 全米ツアー実施
N.W.AがUTFO、ソルト・ン・ペパー(Salt-N-Pepa)、ヘヴィー・Dと共に14日間の全米ツアーを行う。


1987年:「You’re Gonna Miss Me」 発売
クーリオがシングル「You’re Gonna Miss Me」をリリース。


1988年:『Move Something』 発売
ツー・ライヴ・クルー のルーサー・キャンベルがアルバム『Move Something』をクリーン・バージョンとダーティ・バージョンでリリース。若いファンが放送禁止用語を少なくしたバージョンで楽しめるように、このフォーマットで初めてリリースされたアルバムである。


1988年:「Yo! MTV Raps」スタート!
ヒップホップの最初のテレビ番組「Yo! MTV Raps」が放映され、ヒップホップがより幅広いメインストリームのオーディエンスへ拡散する。


1988年:2 Live Crewのアルバム販売トラブル続出
アラバマのレコードショップ ツー・ライヴ・クルーの『Move Something』を覆面捜査官に売ったとして罰金を課せられる。(後に控訴して有罪判決が覆された。)


1988年:「Straight Outta Compton」発売
N.W.A.の「Straight Outta Compton」がリリース。すぐにゴールドを記録し、ギャングスタ・ラップが大衆に普及した。


1988年 6月:トゥパック、マリン・シティに移住
トゥパックと家族がカリフォルニアのマリン・シティに引っ越す。その後まもなく、トゥパックは隣人と一緒にクラック・コカインを売り始める。


1988年8月:トゥパックの継父有罪判決
トゥパックの継父、ミューチュル・シャクール(Mutulu Shakur)が1981年に現金輸送車を狙った強盗の関与の罪で60年の有罪判決を受ける。


1988年:「Power」 発売
アイス・Tが「Power」をワーナー・ブラザーズからリリース。ギャングスタ・イメージが功を奏す。


1988年:MTV「Straight Outta Compton」MV放映拒否
「Yo! MTV Raps」がN.W.Aの「Straight Outta Compton」の放映を拒否する。


1988年: 映画『カラーズ 天使の消えた街』 公開!
映画『カラーズ 天使の消えた街』(Colors)が公開。ロサンゼルスのギャング文化が今まで以上に露出され、世界各地でクリップス やブッラズの支部が生まれる青写真が描かれた。あちこちのラッパーがこの映画で見た内容についてライムし始める。


1988年9月:『Eazy-Duz-It』 発売
ルースレス・レコーズが、イージー・Eのソロ・プロジェクト『Eazy-Duz-It』をリリース。結果として250,000枚以上の売り上げを記録した。


1988年: サイプレス・ヒル 結成
DVXからメロウ・マン・エースが去り、地元のストリート名にちなんだグループ名に変更し、サイプレス・ヒル(Cypress Hill)が誕生する。彼らはブラッズと関係し、ロサンザルス中のクラブでライブ活動をスタートする。


1988年:『Life Is…Too Short』 発売
トゥー・ショートがジャイブ・レコードから『Born To Mack』を再発し、ニュー・アルバム『Life Is…Too Short』をリリース。この2枚のアルバムと次の2枚のアルバムはプラチナムとなる。


1988年:『Supersonic』発売
J.J.ファッド(J.J. Fad/ Just Jammin’ Fresh and Def)がルースレス・レコードから『Supersonic』をリリース。L.Aドリーム・チームのルディ・パーディー(Rudy Pardee)によって発掘された。


1988年:『Filthy』 発売
エジプシャン・ラバーがプライオリティ・レコードから『Filthy』をリリース。


1988年:トーン・ロック 「Wild Thing」 発売
元クリップス・ギャングのトーン・ロック(Tone Loc/Anthony Terrell Smith)がシングル「Wild Thing」をリリースし、一気にポップ・スターにのし上がる。


1988年:『Me And Joe』 発売
ロドニー・O(Rodney-O/Rodney David Oliver)とジョー・クーリー(Joe Cooley)、”ジェネラル”ジェフ・ページ(“General” Jeff Page)がアルバム『Me And Joe』をリリース。西海岸ヒット「Everlasting Bass」と「U Don’t Hear Me Tho’」を収録。


1988年11月15日 : 『Act a Fool』 発売
キング・Tがアルバム『Act a Fool』をリリース。


1989年: ライム・シンジケート・レコーズ 設立
アイス・Tがライム・シンジケート・レコーズ(Rhyme Syndicate Records)を設立する。


1989年:N.W.A.デトロイトのコンサートで拘留
N.W.Aのメンバーがデトロイトのコンサートで、「Fuck tha Police」を少しパフォーマンスしたとして、警察に拘留される。


1989年:『As Nasty As They Wanna Be』 大ヒット!
ツー・ライヴ・クルー の『As Nasty As They Wanna Be』がリリースされ、グループ最大のヒットとなる。シングル「Me So Horny」はチャートでトップ40入りを果たす。


1989年: スヌープ・ドッグ 逮捕
ロングビーチのクリップ・ギャング、21st Insanesのメンバーであるスヌープ・ドッグ(Snoop Dog)がコカイン所持で逮捕される。


1989年:ボス、デトロイトから移住
後にフィメール・ラッパー、ボス(BOSS)となるリシェル・ロウズ(Lichelle Laws)が、レコード・レーベルを探しにデトロイトからロサンゼルスに引っ越す。


1989年: コンプトンズ・モスト・ウォンテッド 結成
MCエイト(MC Eiht)、チル・MC(Chill MC)、DJマイク・T(DJ Mike T)、DJスリップ(DJ Slip)、アンノウンDJ(Unknown DJ)によるコンプトンズ・モスト・ウォンテッド(Compton’s Most Wanted)が結成。彼らがテクノ・ホップ・レコーズからリリースした「This is Compton」がローカルヒットとなる。


1989年:『Lōc-ed After Dark』 発売
トーン-ロックがアルバム『Lōc-ed After Dark』をデリシャス・ヴァイナルからリリース。ビースティ・ボーイズのアルバム『Licensed to Ill』以来、ポップ・チャートのトップに入り込んだ2枚目のラップ・アルバムとなる。アルバムはヤング・MC(Young MC)との共作で、ザ・ダスト・ブラザーズの初期プロダクションも含まれている。このアルバムには「Wild Thing」と「Funky Cold Medina」のヒット・シングル以外に、記録史上最も古いマリファナ・ラップのひとつ「Cheeba Cheeba」が収録されている。アルバムは結果的にトリプル・プラチナムとなった。


1989年8月1日:『No One Can Do It Better』 発売
ザ・D.O.C(The D.O.C.)がドクター・ドレ・プロデュースのアルバム『No One Can Do It Better』をリリース。


1989年8月29日:『Escape From Havana』 発売
メロウ・マン・エースがヒット曲「Mentirosa」を収録したアルバム『Escape From Havana』をキャピタル・レコーズからリリース。


1989年:シュグ・ナイト、 ヴァニラ・アイス を脅す
シュグ・ナイトが20 階建ての建物のバルコニーから、ラッパーのヴァニラ・アイス足首を握り吊り下げ、彼のヒット・アルバム「To The Extreme」のロイヤリティ論争に関する書類にサインするよう脅す。


1989年9月: F.B.I が ルースレス・レコーズ に警告文書送付
F.B.Iがシングル「Fuck tha Police」の歌詞の過激さからルースレス・レコーズに警告文書を送付する。


1989年:2 Live Crewのアルバム販売トラブル続出
ツー・ライヴ・クルーのアルバムに関して、超保守的な監視団体、アメリカの家族協会の支持者で、弁護士、宗教活動家であるジャック・トンプソンが、フロリダ州知事のボブ・マルティネスに対し、フロリダの猥褻法に違反するかどうかの調査を開くよう説得した。州検察官は、州域ではなく地方レベルで行動を起こさなければならないと判断する。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください